財閥御曹司と交わした一途な約束



 自分の部屋に入った美月を見送ると、仕事に取りかかるため書斎に入った。
 義堂財閥の一人息子として生まれてきた俺は、幼い頃から親の決めたレールの上を歩かされていた。やりたいことを素直に言えず、自分が生まれてきた意味がわからなかった。
 俺は、医者になりたかった。
 幼い頃に母が体調を崩し入院し、その時に世話になった医者がすごく優しくて、親切で憧れた。
 その夢を父に伝えると『何を言っているんだ。そんなことを言っている暇があれば経営の勉強でもしろ』と叱責されてしまった。
 それから自分の価値というものを考えるようになり、だんだんと心の中に負の感情が溜まっていったのだ。
 五年前、もう死んでしまいたいと思っていた。
 親の主催するパーティーに連れ回され、将来の社長だと挨拶をさせられる日々。
 大学に行けば財閥の息子だからと女が寄ってきて、好きだとか告白される毎日。
 うんざりだった。
 そしてついになんで生きているのかわからなくなってしまったのだ。
 こんなんであれば産まれた意味などない。
 最後に北海道を旅行して俺の人生は終わりにしようと決意をした。
 今思えば浅はかな考えだったとは思うが、当時の俺は本気でそう思ってしまうほど追い詰められていたのだ。
 家から抜け出して急いで空港に向かい、飛行機に乗り函館に到着した。北海道の冬は空気が冷たくて身震いした。
 昔から気になっていた湯の川温泉にある老舗旅館に予約を入れておいた。女将が三つ指をついて丁寧に頭を下げてくれる。
 内心はこんな若造が一人で宿泊とはなんだろうと疑問に思っていたのではないだろうか。しかし完璧な笑顔を浮かべて『ようこそおいでくださいました、ごゆっくりなさっていってください』と言われた。
 俺は頭を下げて旅館の中に入っていく。重厚な歴史ある建物に感動を覚えていたが、声が聞こえた。
『美月、あんたが案内しなさい。あのお客様、あんなに若いのにお一人で泊まるなんて様子がおかしいから見張っておきなさいよ』
『……はい』
『うちで自殺でもされたら面倒なことになるから』
 ものすごい上から目線の口調だと思ったし、仮にも客がいるのに聞こえていないと思っているのか? あんな口調で言うのはどうなんだ。
『私がご案内いたします』
 美月が近づいてきた。大人しそうな女性だというのが第一印象だ。
 館内を案内し部屋まで連れて案内してくれた。
『どうぞ、ごゆっくりとお過ごしくださいませ』
 その言葉に心がこもっているような印象を受けた。
 夕食は、彼女が運んできてくれた。北海道の食材を使った会席料理で本当に美味しかった。まだ味覚が残っているなら俺には少し余裕があるのかもしれないと思った。
 客室には露天風呂がありゆっくりと湯につかり、空を見上げると星が輝いていた。
 俺の人生、しょぼかった。死ぬ気で生きてきたことがあっただろうか。
 決められた運命を変えたいと思うなら、もっとできることはなかったのだろうか。
 そんなことを思いながら部屋に戻ってきた。
 しかし、今日で俺の人生を終わらせようと思って決意してここまでやってきたのだ。 さあ、どこでどうやって自らの命を絶とうか。そんなことを考えていたら悪寒がした。
 真夜中だったが、体温計を借りたいとお願いすると、美月が持ってきたのだ。
『お待たせいたしました』
『当直なんですか?』
『いえ、私はここの家に育ててもらっていて……』
 途中まで流暢に話していたのに突然言葉が終わってしまう。
 あまりプライベートなことは話すなと教育でもされているのだろうか。
 体温計を確認すると、三十八度の高熱だった。
『大変です。救急車をお呼びいたしましょう!』
 命がなくなってしまってもいいと思っていた俺は、彼女の手をつかんだ。
『これぐらいの熱、平気です』
『しかし』
『実はもうすぐ人生を終わらせようと思っているんです。最後に話を聞いてもらえませんか?』
 この時の俺は気が狂っていたのかもしれない。
 誰かに話を聞いてもらいたくてたまらなかったのだ。
『私でよければ……』
『ありがとう』
 財閥の御曹司として生まれてきたこと、医者になりたかったこと、親の決められた道を歩いてきたこと。好きでもない女性が寄ってきて嫌でたまらないこと。
 全てを吐き出す。
 なぜか美月には本心をぶつけることができたのだ。
 彼女は涙をポロポロと流しながら聞いてくれていた。
『とても辛かったですね』
『あぁ、辛かった。産まれてきた意味がわからなかった』
 頬を伝う雫を親指で拭ってやった。
『……人のことなのに、泣いてくれてありがとう』
『私に何かできることはないでしょうか?』
 透き通るような綺麗な瞳で見つめられ、俺の心が桃色で染まっていくのがわかった。こんなに純真な心の持ち主に出会えたのだから、俺はこれからも生きていかなければいけないと強く思えたのだ。
 しかもこんなに可愛い女の子を泣かせてしまうなんて、俺は男として失格だ。
『泣かせてしまって悪かった。自分の話をしたから今度は美月の話を聞かせてほしい』
 かなり躊躇しているようだったが、彼女はゆっくりと口を開いた。
 美月は養子だった。本当の妹ができてしまってからは、家族として扱われず、まるで家政婦のように生きてきた。
 自分の存在価値がわからなく心が沈んでしまうこともあるらしく、結婚相手も親が決めるから恋愛はするなと言われていたのだ。
 彼女もまた自分の人生を親にコントロールされていて、苦しんでいる様子だった。
『それでも与えられた運命の中でも楽しみを見つけて生き抜こうと決意しています』
 その話を聞いて自分がバカバカしくなってしまった。
 俺はただの弱い人間なんじゃないか。
 自分だけが苦しいと思っていたが、世の中には苦しんでいる人もいる。
 彼女のように強い心を持ちたい。強い心で生きていきたい。
 体の底からエネルギーがみなぎってくるような感覚に陥った。
『美月、俺は君の綺麗な心で引かれてしまった。そして生きる力を見出すことができた』
 思わず彼女の手を強く握りしめていた。
 先ほどまで硬い表情だった彼女が優しく笑った。
『これからも生きようとしてくださって、すごく嬉しいです』
『俺と美月は、支え合う運命かもしれない。導かれてこうして出会った気がするんだ』
『そう言っていただけて光栄です。こんなに自分のことを人に話すのは初めてです』
 愛おしさがあふれてしまった。
 情熱的な感情になったのはこの時が初めてだったかもしれない。
『……離れたくない』
『えっ……?』
『五年後。必ず迎えに来る』
 突然のことで驚いているようだった。
『今すぐ連れて帰りたいところだが、今の俺はまだ頼りなさすぎる。立派な大人になって戻ってくるから、俺を忘れないで待っていてほしい』
 瞳が揺れていたが、彼女はかすかに頷いてくれた。
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