敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?
警備員に扉を開けてもらい、2人は庭園に入った。

「わあ、気持ちいい」

春の陽気と、程よい風と、手入れされた趣味のいい植物たち。まだ土曜の午前中だからか、下界の喧騒も控えめで、大都会の真ん中にいるとは思えないくらい穏やかな空気に包まれている。これはとても贅沢だ。

「学くん、早くおいでよ」

庭園の真ん中まで走り出た阿久津が呼ぶと、ゆっくりと学が着いてくる。

「どう? 気分は悪くない?」
「はい。久しぶりの直射日光は少し眩しいですが、すごく、開放的な気分です」
「良かった! おめでとう。勇気を持って一歩踏み出せたね」
「はい。阿久津さんのおかげで、こんなに明るい世界があるんだって分かって良かったです」

学はシャネルのキャップを外し、久しぶりの外の景色を存分に堪能しているようだった。

「外の世界がずっと怖いと思ってたんですけど、いざ出てみると、太陽の光も、空気も、僕を攻撃してくることもなく、ただただそこにあるだけって感じですね」
「そうだね」

学がしみじみと言った言葉は、阿久津の心にも沁みた。

「……僕、馬鹿みたいですけど、引きこもり歴長過ぎて、太陽を浴びたら吸血鬼みたいに灰になっちゃうんじゃないかって妄想ばかりしてました」

苦笑しながら学が自虐した。

「何それ、想像力豊かすぎない⁈」

ハハハ、と阿久津が笑った瞬間、元々緩んでいた髪のゴムが解けた。その瞬間、サラリと肩に髪がかかる。

あ、しまった結び直さなきゃ、と思ったが、学がこちらを見ていることに気づいた。驚いたような、それでいてなんだか泣きそうなその表情。

「あ、ごめん! ちょっと髪ゴム緩んでたみたいで。お見苦しいところをお見せしました」

阿久津は急いで落ちたゴムを拾い上げて髪を結び直そうとすると、学が声を上げる。

「あの! ……良かったら、その……髪、そのままでいてくれませんか?」
「え?」
「ええと、その……すごく、綺麗だなって思って。髪が風になびいて、それを絵に描きたいと思ったというか。あ、ごめんなさいこんなこと言って。嫌だったら大丈夫です」

赤くなった学の顔の熱が伝染ったのだろうか。何故かこちらまで頬のあたりが熱くなる。

「綺麗」なんて言葉、もしかして阿久津沙耶、31年の人生で初めて言ってもらったかもしれない(コスメコーナーのお姉さんのセールストークを除く)。なんでそんなことを学は自分に言ってくれるんだろう。これがアーティストってやつなのだろうか。ロマンチックな言葉をポンポン思いついてモデルをその気にさせていく。

阿久津が学のまっすぐな言葉に動揺していると、学はスケッチブックを開いてペンを構えた。

「この今の感じを是非スケッチしたいです。なんだか凄くいい絵が描けそうな予感がするんです。良いですか?」
「う、うん。分かった」

とりあえず、学の絵の制作が進むのならば良かった。阿久津はポーズを取る。

そういえば、学にはいつも髪をまとめた状態でしか顔を合わせたことが無かった。最近、学の母か姉が残して行ったと思われるドライヤーを借りて使っていたのが功を奏したかもしれない。調べてみたら10万円もする業務用のものだった。

阿久津も3万円台くらいのそこそこ良い値段のドライヤーを使っていたが、やはり佐伯家のものには敵わなかった。確か5年くらい前、誰かさんの一言をきっかけにそれまでの激安ドライヤーからそれに買い替えたのだ。

髪綺麗な人って美意識高い感じがして良いよね。

そう言っていた星が結婚した女性は、確かに髪がいつもツヤツヤで綺麗だった。阿久津はというと、元々が癖っ毛だったためかドライヤーを変えていくらかマシになったものの、誰かに気付かれることもない程度の変化しか無かった。

学に初めて綺麗と言ってもらえて、なんだかその時の虚しさが供養されたような気持ちだった。

「阿久津さん? 大丈夫ですか」

他のことを考えて、表情が曇っていたのだろうか。学が心配そうにこちらを見ていた。

「ごめん、ぼーっとしてた! 大丈夫、どんどん描いて!」

気を取り直して阿久津は表情を作り直した。


◇◇◇


学のスケッチは順調に進み、1時間ほどで完成した。

途中、なんと別の住人の若い夫婦が庭園に散歩に来て、学は大丈夫かと焦ったが、学は帽子を被り直しただけで、また一心不乱にスケッチを始めた。それだけ集中しているのだろう。若夫婦も特にこちらを気にしている様子もなく、阿久津はホッとした。

「すみません。阿久津さんには完成品を見せたいと思いますので」

そう言って学は出来上がったスケッチを隠した。阿久津は無理に見ようとはしなかった。

「分かった。絵のアカウントにアップされるのを楽しみにしてるね」
「期待に応えられるよう、頑張ります」
「そういえば、気づいた? 学くんがスケッチしてる途中、他の住人の方が庭園に来たんだけど」
「あ、そうなんですか、やっぱり……。いや、気配は感じてたんですけど、スケッチに夢中で。意外に平気なものですね。なんというか、僕が引きこもりとか、髪がボサボサとか、そんなの大体の人は気にしてないんだなって思ったら少し気が楽になりました」
「良いねえ、その調子! 都会の良いところは、大衆に紛れられるところだよ」

阿久津も富山から上京した時、学と似たようなことを思ったのを懐かしく思った。

「あの、阿久津さん」

学が何か決心したように話を切り出す。

「度々で申し訳ないのですが、お願いがあるんです」
「うん、どんな?」
「今までも実は、外に出られたら良いなって思ったことが何回かあって。例えば、夕飯を作っていていつもネットスーパー頼りだけど、ちゃんと品物を見て買いたいなとか、もっと絵の素材を見つけるために出歩けたらなって思って……。何より、いつまでも働かないで父の経済力の世話になってるわけにいかないし」
「つまり、もっと外に自由に出てみたいと」
「はい。その通りです」
「良いじゃん。もちろんお手伝いするよ」

阿久津が微笑むと、学は安心したように目を細めた。

「でも、それにはいくつかハードルがあって」

学は恥ずかしそうにその伸びた癖毛を触る。

「僕は今、情けないことにこんな服装と髪型です。外に出る前に、阿久津さんの近くにいても恥ずかしくない格好になりたいと思ったりするんですが……」

なるほど、外に出るためには髪を切ったり新しい服を買って「外に出るための格好」にならないといけない。だが、それ以前に店に行くためのある程度の身だしなみは必要だろう。まさに今は「服を買いに行く服が無い」状態である。

「うん、分かった」

阿久津は深く頷くと、学の肩をポンと叩いた。

「安心して。私にアテがある」
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