龍神の100番目の後宮妃
蘭蘭は、一日中こんこんと眠り続けた。夕方、目を覚ました時は少し熱が出ていてぼんやりとしていた。翠鈴が自分の食事についてきた粥を食べさせると、また眠りについた。
そして目を覚ましたのは次の日の朝だった。翠鈴が食堂で朝食をもらって帰ってくると、起き上がりキョロキョロと部屋の中を見回している。
「起きたのね、気分はどう?」
翠鈴の姿を見てようやく昨日のことを思い出したようだった。
「あ……! 翠鈴妃さま……! 私、も、申し訳ありません……!」
慌てて寝台から出ようとするのを止めて、そのまま診察をする。
「うん、熱もないし顔色もいいわね。まずは水を飲んで。食欲はある? 蘭蘭が食べられるように、果物を少し多めにもらってきたの」
言いながら、病み上がりでも食べやすいように汁物の中に飯を入れて蘭蘭に差し出すと、恐る恐る受け取った。
昨日から今までのやり取りの中で、翠鈴がすることになにを言っても無駄だとわかったようだ。彼女に箸を渡して、翠鈴は饅頭にかぶりついた。
「ここはあまり好きじゃないけど、この饅頭だけは絶品ね。毎食、食べても飽きないわ」
もぐもぐしながらそう言うと、蘭蘭が箸を持ったまま瞬きをして、震える声を出した。
「私、ここへ来てこんなに優しくしてもらったのははじめてです……」
そのまましくしくと泣いている。
その姿に翠鈴の胸は痛んだ。七江だって豊かではなかったから、彼女くらいの年齢の者は働かなくては生きていけなかった。でも寝るひまもなくろくに食べさせてもらえていないのに、働かされているような子はいなかった。
「……蘭蘭は、どうしてここで働いてるの?」
尋ねると鼻をすすって答えた。
「家は貧しいわけではないですが、弟と妹がたくさんいるんです。だから父と母を助けたくて、採用試験を受けました。お給金もいいし運がよかったなって思います。だけど本当はそんな目的でここへ来てはいけなかったんです」
蘭蘭はまるで恥じるように言う。
翠鈴には意味がわからなかった。家族の生活を支えるために働いている、それのなにがダメなのだ。
「ほかの女官の方は、行儀見習いのためにお勤めしているんです。後宮女官をしていた経歴があれば、いい縁談が来るとかで……。私みたいに金子目当てでお役目につくのは卑しい考えだと言われました」
その言葉に翠鈴は眉を寄せる。女官仲間から彼女が不当な扱いを受けていた理由はわかったものの、まったく納得いかなかった。
「私、間違っていたんです。おまけにやることも遅くて……」
「あなたは間違っていないわ、蘭蘭」
なおも自分を卑下する言葉を口にしようとする蘭蘭を、思わず翠鈴は遮った。お腹の中でふつふつと怒りが込み上げるのを感じていた。
「食べていくために働くことのいったいなにが卑しいのかしら? ましてや自分だけでなく家族のためでもあるんだもの。あなたは立派よ、蘭蘭。なにも恥じることはないわ」
彼女の肩をガシッと掴み、翠鈴は言い切った。
「それが卑しいことなら、この国は皆卑しい人だらけになるじゃない!」
蘭蘭が驚いたように目を見開いた。
「そんな風に言ってもらえたのははじめてです……」
そしてまたハラハラと涙を落としはじめた。
「とにかく食べて。元気にならなきゃ、働けないわ」
細い身体を震わせて泣く蘭蘭に、翠鈴は言う。彼女がこくんと頷いた時。
「翠鈴妃さま、翠鈴妃さま」
コンコンと扉がノックされる。蘭蘭がぎくりと肩を震わせた。
「翠鈴妃さま?」
声からしてどうやら梓萌のようだった。
「蘭蘭、ちょっと床を拭いてるふりをしてくれない? あなたは、ずっとここで床掃除をやらされていることになってるの」
小さな声で言うと蘭蘭が頷いて言う通りにする。それを確認して、翠鈴は扉を開けた。
「はい」
扉の先に立っていたのは、予想通り梓萌だった。
「翠鈴妃さま、お呼びしたらすぐに答えてくださいませ。それがここの決まりです」
開口一番小言を言う。
「申し訳ありませんでした」
翠鈴が謝ると、本題に入った。
「今宵、皇帝陛下のお召しがございます。夕刻に、湯殿にご案内しますので、湯に浸かっていただき、失礼のないようきちんと身なりを整えてくださるようお願いいたします」
そして眉を寄せて翠鈴の頭のてっぺんから足まで、視線を走らせる。翠鈴が汚いと言わんばかりだ。
確かに、昨夜はきちんと身体を拭いたが、そもそも長旅でドロドロだった。皇帝に会えるような状態でないのは確かだ。湯を使わせてもらえるのはありがたい。
「白菊さまよりお召し物は準備するとのお言葉がありましたから、夕刻までには届くでしょう」
「わかりました」
答えると、梓萌は床掃除をしている蘭蘭に視線を送った。
「皇帝陛下のお召しまでの段取りは蘭蘭が知っています。それでは」
そう言ってさっさと帰っていった。
扉を閉めて、翠鈴はドキドキする。白菊には皇帝とは会うだけでいいと言われたが、それでも緊張してしまうのは仕方がないことだった。
相手は国の頂点に君臨する存在で、しかも龍神だ。本当なら翠鈴など生涯にわたって会うことなどないはずの相手なのだから。
ふう、と息を吐いて振り返ると、蘭蘭が立ち上がり悔しそうに握り拳を作っていた。
「蘭蘭? どうかした?」
不思議に思って尋ねると、彼女は扉を睨んだ。
「お妃さま方が使われる湯殿は、山の温泉から湯を引いてきます。毎日湯を入れ替えて、まだ日が高いうちから、一のお妃さまから順番に数名ずつ入っていただく決まりです」
彼女が口にする湯殿に関する決まりごとに、翠鈴は頷いた。毎日新しくしていても当然ながら人が使えば湯は汚れる。位の高い妃が優先されるのが当然だ。
翠鈴は百番目だから、すべての妃が入った後に夕方に呼びに来ると梓萌は言ったのだろう。
「でも皇帝陛下のお召しがあるお妃さまは別なんです。一番最初に入る決まりになっています。皇帝陛下は龍神さまですから、新しくて綺麗な湯で身体を清めて頂かなくてはなりません」
彼女は、梓萌が決まりを守らずに、翠鈴を最後にしたことに怒っているのだ。
「蘭蘭……」
「翠鈴さまだって、お妃さまなんですから、同じようにしていただかなくてはいけないのに」
意外な彼女の反応に、翠鈴の胸は温かくなる。
一方で、梓萌の対応にはそれほど腹は立たなかった。もしかしたら彼女は白菊から事情を聞いているのかもしれない。翠鈴が今夜皇帝のもとへ行っても寵愛を受けることはないと……。
「私は百の妃。皇帝陛下のお召しがあっても、ご寵愛をお受けすることはないからかもしれないわね」
白菊との約束を話すわけにいかなくて、曖昧に言うと、蘭蘭が声を張り上げた。
「だけど、それは他のお妃さま方も同じです! 後宮が開かれてお妃さま方が集められてしばらく経ちますが、まだご寵愛をお受けになられたお妃さまはいらっしゃらないんですから!」
その言葉に、翠鈴は驚いて聞き返した。
「え? まだ誰も?」
言いながら、蘭蘭を落ち着かせるために寝台に座らせる。あまり人に聞かれない方がいいように思ったからだ。
「はい」
「だけど一のお妃さまは、確か龍神さまを癒すことができる翡翠の手をお持ちなんでしょう? 宿命の妃だって聞いたわ」
不安になって翠鈴は問いかける。
皇帝の不調は、宿命の妃が癒してくれると国中が期待している。翠鈴だってそう思って安心していたのだ。
日照りや水害がどれだけ民を苦しめるか、決して豊かではない村で育った翠鈴はよく知っている。
「華夢妃さまは、翡翠の手の使い手として、診察はされているようですが、ご寵愛は受けておられません。皇帝陛下のお召しがある夜もすぐにお部屋へ戻ってこられますから」
「そう、診察はされているのね」
蘭蘭の話に、翠鈴はまずは安心する。それならば、体調は大丈夫だろう。翡翠の手の持ち主は、どんな不調も癒すと言われているのだから。もしかしたら、ご寵愛は体調の回復を待っているのかもしれない。いずれにせよ、そのあたりは自分には関わりのない話だ。
「よくわかったわ、蘭蘭。ありがとう、湯を使う順番が最後でも、ご寵愛を受ける心配がないなら安心よ」
気持ちを切り替えて翠鈴が言うと、蘭蘭はまた目を潤ませ、ぐっと口を一文字に結び、目の前の箸を掴むと粥をガツガツと食べ始めた。
「蘭蘭……?」
突然の行動に翠鈴が首を傾げると、彼女はもぐもぐとしながら答えた。
「こうしてはいられません。翠鈴さまの今宵のお召しの準備を整えなくては!」
そして目を覚ましたのは次の日の朝だった。翠鈴が食堂で朝食をもらって帰ってくると、起き上がりキョロキョロと部屋の中を見回している。
「起きたのね、気分はどう?」
翠鈴の姿を見てようやく昨日のことを思い出したようだった。
「あ……! 翠鈴妃さま……! 私、も、申し訳ありません……!」
慌てて寝台から出ようとするのを止めて、そのまま診察をする。
「うん、熱もないし顔色もいいわね。まずは水を飲んで。食欲はある? 蘭蘭が食べられるように、果物を少し多めにもらってきたの」
言いながら、病み上がりでも食べやすいように汁物の中に飯を入れて蘭蘭に差し出すと、恐る恐る受け取った。
昨日から今までのやり取りの中で、翠鈴がすることになにを言っても無駄だとわかったようだ。彼女に箸を渡して、翠鈴は饅頭にかぶりついた。
「ここはあまり好きじゃないけど、この饅頭だけは絶品ね。毎食、食べても飽きないわ」
もぐもぐしながらそう言うと、蘭蘭が箸を持ったまま瞬きをして、震える声を出した。
「私、ここへ来てこんなに優しくしてもらったのははじめてです……」
そのまましくしくと泣いている。
その姿に翠鈴の胸は痛んだ。七江だって豊かではなかったから、彼女くらいの年齢の者は働かなくては生きていけなかった。でも寝るひまもなくろくに食べさせてもらえていないのに、働かされているような子はいなかった。
「……蘭蘭は、どうしてここで働いてるの?」
尋ねると鼻をすすって答えた。
「家は貧しいわけではないですが、弟と妹がたくさんいるんです。だから父と母を助けたくて、採用試験を受けました。お給金もいいし運がよかったなって思います。だけど本当はそんな目的でここへ来てはいけなかったんです」
蘭蘭はまるで恥じるように言う。
翠鈴には意味がわからなかった。家族の生活を支えるために働いている、それのなにがダメなのだ。
「ほかの女官の方は、行儀見習いのためにお勤めしているんです。後宮女官をしていた経歴があれば、いい縁談が来るとかで……。私みたいに金子目当てでお役目につくのは卑しい考えだと言われました」
その言葉に翠鈴は眉を寄せる。女官仲間から彼女が不当な扱いを受けていた理由はわかったものの、まったく納得いかなかった。
「私、間違っていたんです。おまけにやることも遅くて……」
「あなたは間違っていないわ、蘭蘭」
なおも自分を卑下する言葉を口にしようとする蘭蘭を、思わず翠鈴は遮った。お腹の中でふつふつと怒りが込み上げるのを感じていた。
「食べていくために働くことのいったいなにが卑しいのかしら? ましてや自分だけでなく家族のためでもあるんだもの。あなたは立派よ、蘭蘭。なにも恥じることはないわ」
彼女の肩をガシッと掴み、翠鈴は言い切った。
「それが卑しいことなら、この国は皆卑しい人だらけになるじゃない!」
蘭蘭が驚いたように目を見開いた。
「そんな風に言ってもらえたのははじめてです……」
そしてまたハラハラと涙を落としはじめた。
「とにかく食べて。元気にならなきゃ、働けないわ」
細い身体を震わせて泣く蘭蘭に、翠鈴は言う。彼女がこくんと頷いた時。
「翠鈴妃さま、翠鈴妃さま」
コンコンと扉がノックされる。蘭蘭がぎくりと肩を震わせた。
「翠鈴妃さま?」
声からしてどうやら梓萌のようだった。
「蘭蘭、ちょっと床を拭いてるふりをしてくれない? あなたは、ずっとここで床掃除をやらされていることになってるの」
小さな声で言うと蘭蘭が頷いて言う通りにする。それを確認して、翠鈴は扉を開けた。
「はい」
扉の先に立っていたのは、予想通り梓萌だった。
「翠鈴妃さま、お呼びしたらすぐに答えてくださいませ。それがここの決まりです」
開口一番小言を言う。
「申し訳ありませんでした」
翠鈴が謝ると、本題に入った。
「今宵、皇帝陛下のお召しがございます。夕刻に、湯殿にご案内しますので、湯に浸かっていただき、失礼のないようきちんと身なりを整えてくださるようお願いいたします」
そして眉を寄せて翠鈴の頭のてっぺんから足まで、視線を走らせる。翠鈴が汚いと言わんばかりだ。
確かに、昨夜はきちんと身体を拭いたが、そもそも長旅でドロドロだった。皇帝に会えるような状態でないのは確かだ。湯を使わせてもらえるのはありがたい。
「白菊さまよりお召し物は準備するとのお言葉がありましたから、夕刻までには届くでしょう」
「わかりました」
答えると、梓萌は床掃除をしている蘭蘭に視線を送った。
「皇帝陛下のお召しまでの段取りは蘭蘭が知っています。それでは」
そう言ってさっさと帰っていった。
扉を閉めて、翠鈴はドキドキする。白菊には皇帝とは会うだけでいいと言われたが、それでも緊張してしまうのは仕方がないことだった。
相手は国の頂点に君臨する存在で、しかも龍神だ。本当なら翠鈴など生涯にわたって会うことなどないはずの相手なのだから。
ふう、と息を吐いて振り返ると、蘭蘭が立ち上がり悔しそうに握り拳を作っていた。
「蘭蘭? どうかした?」
不思議に思って尋ねると、彼女は扉を睨んだ。
「お妃さま方が使われる湯殿は、山の温泉から湯を引いてきます。毎日湯を入れ替えて、まだ日が高いうちから、一のお妃さまから順番に数名ずつ入っていただく決まりです」
彼女が口にする湯殿に関する決まりごとに、翠鈴は頷いた。毎日新しくしていても当然ながら人が使えば湯は汚れる。位の高い妃が優先されるのが当然だ。
翠鈴は百番目だから、すべての妃が入った後に夕方に呼びに来ると梓萌は言ったのだろう。
「でも皇帝陛下のお召しがあるお妃さまは別なんです。一番最初に入る決まりになっています。皇帝陛下は龍神さまですから、新しくて綺麗な湯で身体を清めて頂かなくてはなりません」
彼女は、梓萌が決まりを守らずに、翠鈴を最後にしたことに怒っているのだ。
「蘭蘭……」
「翠鈴さまだって、お妃さまなんですから、同じようにしていただかなくてはいけないのに」
意外な彼女の反応に、翠鈴の胸は温かくなる。
一方で、梓萌の対応にはそれほど腹は立たなかった。もしかしたら彼女は白菊から事情を聞いているのかもしれない。翠鈴が今夜皇帝のもとへ行っても寵愛を受けることはないと……。
「私は百の妃。皇帝陛下のお召しがあっても、ご寵愛をお受けすることはないからかもしれないわね」
白菊との約束を話すわけにいかなくて、曖昧に言うと、蘭蘭が声を張り上げた。
「だけど、それは他のお妃さま方も同じです! 後宮が開かれてお妃さま方が集められてしばらく経ちますが、まだご寵愛をお受けになられたお妃さまはいらっしゃらないんですから!」
その言葉に、翠鈴は驚いて聞き返した。
「え? まだ誰も?」
言いながら、蘭蘭を落ち着かせるために寝台に座らせる。あまり人に聞かれない方がいいように思ったからだ。
「はい」
「だけど一のお妃さまは、確か龍神さまを癒すことができる翡翠の手をお持ちなんでしょう? 宿命の妃だって聞いたわ」
不安になって翠鈴は問いかける。
皇帝の不調は、宿命の妃が癒してくれると国中が期待している。翠鈴だってそう思って安心していたのだ。
日照りや水害がどれだけ民を苦しめるか、決して豊かではない村で育った翠鈴はよく知っている。
「華夢妃さまは、翡翠の手の使い手として、診察はされているようですが、ご寵愛は受けておられません。皇帝陛下のお召しがある夜もすぐにお部屋へ戻ってこられますから」
「そう、診察はされているのね」
蘭蘭の話に、翠鈴はまずは安心する。それならば、体調は大丈夫だろう。翡翠の手の持ち主は、どんな不調も癒すと言われているのだから。もしかしたら、ご寵愛は体調の回復を待っているのかもしれない。いずれにせよ、そのあたりは自分には関わりのない話だ。
「よくわかったわ、蘭蘭。ありがとう、湯を使う順番が最後でも、ご寵愛を受ける心配がないなら安心よ」
気持ちを切り替えて翠鈴が言うと、蘭蘭はまた目を潤ませ、ぐっと口を一文字に結び、目の前の箸を掴むと粥をガツガツと食べ始めた。
「蘭蘭……?」
突然の行動に翠鈴が首を傾げると、彼女はもぐもぐとしながら答えた。
「こうしてはいられません。翠鈴さまの今宵のお召しの準備を整えなくては!」