龍神の100番目の後宮妃
 明るい光を感じて翠鈴はゆっくりと目を開く。すぐそばにある皇帝の寝顔に、ギョッとして、一気に意識が覚醒する。
 広い寝台で、翠鈴は彼の腕に抱かれぴたりとひっついていた。
 閉じた長いまつ毛と、合わせからちらりと覗く裸の胸元に、翠鈴の鼓動が加速する。眠る彼は、龍の姿と同じように美しい。でも龍の時と違うのは、目のやり場に困るということだった。とにかくこの状況は、心の臓によくない。自分を包む腕から抜け出そうと試みる。
 それに皇帝が気がついた。

「ん……起きたのか」

 腕が解かれたことにホッとして、翠鈴は身体を起こして正座する。
 そして頭を整理した。
 昨夜は泣きながら彼に縋りつきそのまま寝てしまったようだ。
 一夜を共にしたとはいえ、まだよく知らない男性とくっついて寝たことが自分でも信じられない。でもそれよりも驚きなのは、皇帝が自分を抱いたままだったことだ。

「寝てしまって……申し訳ありません」

 皇帝が身体を起こし、手を伸ばして翠鈴の頬に触れる。

「かまわない。それより気分はどうだ? 大事ないか?」

 唐突に触れられた頬の温もりに、翠鈴の胸が飛び跳ねる。すぐには答えられなかった。
 彼がどのような人物かなど考えたこともなかったが、少なくとも翠鈴のようなただの娘に、優しい言葉をくれるとは想像していなかった。でもよく考えてみれば、昨夜の彼も随分と優しかったのだ。
 昨夜翠鈴は、彼に失礼な態度を取った。子の父親である皇帝を前にして、懐妊したことを嘆いたのだから。
 本当なら、不敬罪に問われて処刑されてもおかしくはない。それなのに咎められることはなかった。
 それどころか彼は、翠鈴を抱き寄せて泣き止むまで背中を優しくさすってくれたのだ。それがとにかく意外だった。
 今も不快そうな素ぶりは微塵もなく、ただ気遣わしげに眉を寄せ、翠鈴の頬に手をあてて覗き込んでいる。
 頬を包む大きな手と優しい色を浮かべたその目に、翠鈴は、なにやら落ち着かない気持ちになる。頬が熱くなるのを感じながら漆黒の瞳から目を逸らした。

「大丈夫です。あの……昨夜は失礼いたしました」

「いや……」

 彼はそう言って首を横に振った。そして親指で翠鈴の瞼に優しく触れる。

「腫れてはないな」

 昨夜泣いてしまった翠鈴を気遣ってくれているのだ。少し申し訳なさそうに口を開いた。

「子ができたからには、村に帰してやることはできない。申し訳ないことをした。代わりにはならないだろうが、故郷の村には恩恵を与えよう。そなたのことも、妃として大切にすると約束する」

 思いがけない真摯な言葉に、翠鈴は息が止まるような心地がした。龍神である皇帝がまさかこのような真っ直ぐな謝罪の言葉を口にするとは。

「皇帝陛下……!」

「それから、これからはふたりだけの時は名で呼べ」

「え? 名で?」

「ああ、私の名は劉弦。私たちは夫婦になるのだから」

「劉弦さま……。夫婦」

 これもまた思いがけない言葉だった。神さまを名で呼ぶなど翠鈴の常識ではあり得ない。夫婦になると言われてもまったく実感が湧かなかった。
 とはいえこの状況を、昨夜よりは冷静に受け止めている自分がいるのも確かだった。たくさん泣いて喚いて、寂しくて悲しい気持ちを彼に聞いてもらえたからかもしれない。
 いくら泣いたところでもう村には帰れない、ここで生きていくしかないのだ。
 幸いにして、夫となる劉弦は思っていたよりも誠実な人物のようだ。懐妊したとはいえ、百人いる妃のうちのひとりでしかない翠鈴に、このような言葉をくれるのだから。

 翠鈴は改めて彼を見る。清らかな朝の光の中の劉弦は美しかった。銀髪が光を反射して輝いている。

「わかりました、劉弦さま」

 すると劉弦は瞬きを二回して、翠鈴から目を逸らす。そして掠れた声で呟いた。

「……瞳も澄んでいるのだな」

「え……?」

「いや……。私はそろそろ執務へ行かねばならない。翠鈴はもう少しここで休んでいるがよい。朝食をここへ運ばせることもできるが……」

「わ、私も自分の部屋へ戻りたいと思います。蘭蘭……女官も待っているでしょうし」
 慌てて翠鈴は答えた。皇帝の寝所でひとりでのうのうと食事をする度胸はない。それに翠鈴がいなくては蘭蘭は食事にありつけないかもしれない。
 ぶんぶんと首を振る翠鈴に、劉弦がふっと笑った。

「そうか、ではまた夜に。女官を呼ぶから、このままここで待っていよ」

 そう言って、翠鈴の頭を撫でて部屋を出ていった。
 はじめて見る彼の笑顔に、翠鈴は動けなくなってしまう。鼓動がとくとくとくと速度を上げてゆくのを感じていた。
 昨夜、翠鈴は絶望の中にいた。この世の終わりのように感じていたというのに、一夜明けてみるとまったく違う世界が広がっているように思えるのが不思議だった。
 彼の子を身籠った。
 それについてはまだ実感がない。

 ――それでも新しい想いが自分の中に芽生えるのを感じている。その想いがいったいなんなのか、まだわからないけれど。
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