龍神の100番目の後宮妃
第三章 変化
洋洋
懐妊定めの儀から一夜明け、後宮の自分の部屋へ戻った翠鈴は、寝台に寝そべる蘭蘭の指圧をしている。
「ああ〜、翠鈴さま。気持ちいいですう。寝てしまいそう」
「寝なさい。蘭蘭、昨日また寝なかったでしょう」
「翠鈴さまが倒れられて皇帝陛下の寝所にいらっしゃるという知らせがあったのに、寝られるわけがないですよ。ご懐妊が判明したって話も同時に伝わってきたから、どちらにしてもドキドキして眠れなかったと思いますが。それにしても、翠鈴さまはお世継ぎを宿された大切なお身体なのに、こうしていただくのは申し訳ないですー」
「いいから、いいから。これは私からの命令よ。あなたの仕事なの」
そう言うと彼女は素直に目を閉じた。
ここで生きていくしかないのなら、あれこれと思い悩んでもしかたがない。今やれることをやるしかない。とりあえず、指圧の腕が鈍らないように、翠鈴は蘭蘭を揉んでいるというわけである。
劉弦は翠鈴を翡翠の手の使い手だと断言した。はじめは信じられないと思ったが、龍神である彼が言うならばそうなのだろうと今は思う。
翠鈴には小さな頃から人の身体に触れるだけで、不調を見抜く力があった。翡翠の手の使い手は龍神だけでなく、人の役にも立つのだ。ならば、その腕を無駄にせぬようにしていたい。
気持ちよさそうに目を閉じて蘭蘭が口を開いた。
「それにしても昨夜、懐妊定めの儀から戻られた他のお妃さま方は大騒ぎでしたよ。なかなかお休みになられなくて、女官長さまに叱られてようやく部屋に戻られたんです」
翠鈴は昨夜の大寺院での様子を思い出す。記憶がやや曖昧だが、確かにあの場も騒然としていた。興奮冷めやらぬまま後宮に戻ったのだろう。
「だけど懐妊なんて、全然実感が湧かないわ。間違いじゃないかと思うくらいよ。自分が子を産むなんて想像したこともなかったから」
思わず翠鈴は本音を口にする。誰かに聞かれた叱られそうな発言だが、今は蘭蘭しかいない。
「翠鈴さまはまだお若いですからね。そのように思われても仕方がないでしょう。はじめから覚悟を持って子を作る母親なんてそんなにたくさんおりません。生まれる時までにだんだんと気持ちが定まってくるものにございます……と、昔私の母が誰かに言っておりました」
訳知り顔で蘭蘭が言う。そういえば、蘭蘭のお母さんは子だくさんだった。
「ご安心くださいませ、翠鈴さま。私は、弟や妹が生まれるのをなん度も経験しております。お産に関してはたいていのことは心得ております」
「そう、頼りにしてるわ」
出産に関しては知識でしか知らない翠鈴にとってはありがたい話だった。
「ふふふ、きっと可愛いお世継ぎにございますよ。翠鈴さまはお美しいですし、私などお姿を拝見したことはありませんが、皇帝陛下もたいそう精悍でお美しい方だと聞きました」
その言葉に翠鈴は手を止めた。今朝のあの気持ちが蘇り、なにやら胸がざわざわとした。
「他のお妃さま方は、それはもう騒いでおられました。目にしただけでぼうっとなってしまうほどだと……。ここにいるお妃さま方は陛下に仕える定めです。陛下は陛下だというだけで、ありがたい存在ですが、それにしても美しい方でよかったとおっしゃっておられる方もいらっしゃいました。女官長さまに、罰当たりだとこっぴどく叱られておられましたが」
蘭蘭の話を聞くうちに、劉弦の優しい眼差しと頬を包んだ大きな手の温もりを思い出す。頬が熱くなるのを感じた。
この件に関しては梓萌の言う通りだと翠鈴は思う。相手は龍神さまなのだ。妃になるといっても、人間同士でいう恋愛感情のようなものは不要なはず……。
「あ、あいたた……! 翠鈴さま、少し痛いです」
蘭蘭が声をあげる。
翠鈴はハッとして手を止めた。
「あ、ごめんなさい」
知らず知らずのうちに力を入れすぎていたようだ。ふーっと深呼吸をして心を落ち着けようとしていると。
「なにやつ!」
蘭蘭が鋭く言って起き上がり、素早く窓を開けて外へ出る。外にいたと思しき人物と揉み合いになっている。慌てて翠鈴も行ってみると相手は年嵩の女官だった。
「は、離しなさいっ!」
女官は蘭蘭の手を振り払って一喝した。
「蘭蘭、あなたこんな乱暴なことをしてただでは済みませんよ」
蘭蘭は相手が先輩女官だと知って驚いたように手を離す。
代わりに翠鈴が、部屋の中から問いただした。
「手荒な真似をしたことは、謝ります。ですがなぜそのような場所に? 部屋を覗かれていたのでしょう?」
女官はぐっと言葉に詰まり答えなかった。
「翠鈴さま、女官長さまに報告いたしましょう。翠鈴さまは大切なお世継ぎを宿されておられるのですなにかあってからでは取り返しがつきません」
蘭蘭が言うと、女官がぎょっとした。
「わ、私はなにもそのような目的で覗いていたわけではございません。ただ……」
そこで言い淀み、迷うように視線を彷徨わせている。なにか事情がありそうだ。とりあえず翠鈴は彼女に部屋へ入るよう促した。
「それにしても蘭蘭、あなた素早いわね。まるで間者のようだったわよ」
部屋の中で女官を座らせてから、翠鈴は蘭蘭に言った。さっきの彼女の動きは、目を見張るものがあった。
「小さい頃から武術の道場に通っていて身の軽さには自信がありますから」
蘭蘭が胸を張って答えた。
女官がそんな蘭蘭を訝しむように見て口を開いた。
「いったいどうしてこんなに元気になったのです? つい最近まであんなに青白い顔をしていたのに。いったいなにをやったんです?」
問い詰めるように言う彼女を落ち着かせて、翠鈴が事情を聞くと。
彼女の名前は、洋洋。九十九の妃、芽衣妃付きの女官だという。
洋洋は芽衣が幼い頃から世話をしていた母親代わりのようなもので、遠く離れた故郷からついてきて一生懸命に世話をしている。
その芽衣が、最近体調が優れないのだという。顔色は悪いし食欲もない。夜もなかなか寝付けない日が続いているというのである。
「蘭蘭だってつい最近まで青い顔をしてふらふらしていたというのに、ここ数日はピンピンしています。翠鈴妃さま付きになってからにございますわ。いったいなにがあったのかと、少し覗かせていただいていたのです」
本当に芽衣のことを思っているのだろう。洋洋は、心底心配そうだった。
「事情はわかったわ洋洋、それは心配ね」
翠鈴が言うと、洋洋はやや驚いたように目をパチパチさせる。まさか翠鈴が同情するとは思わなかったようだ。寵愛を受けようが懐妊しようが、翠鈴はなんといっても緑族の娘、まさか人間らしい答えをもらえると思っていなかったのだろう。だからこそ、直接相談せずに、こっそり覗いていたのだ。
まず翠鈴は蘭蘭について説明する。
「蘭蘭は睡眠と栄養が足りていなかったから、青い顔をしてたのよ。たくさん食べて、よく休んだから元気になったのよ」
「では芽衣妃さまも同じようにすれば……」
「それはわからないわ、洋洋。まずは芽衣妃さまを診察させていただかないと」
同じような症状でも原因が同じだとは限らない。本人を診てみないと無責任なことは言えなかった。
「診察……にございますか。ですが、直接お会いになるのは、芽衣妃さまがなんとおっしゃるか……」
洋洋はいまひとつ乗り気ではないようだ。芽衣妃は嫌がることがわかっているからだろう。
もちろん、本人にその気がないのに無理強いはできない。でも、体調不良だという人の話を聞いて、放っておくことはできなかった。
「私、故郷では診療所を開いていたの。直接診せてもらえれば、芽衣妃さまの不調の原因がわかるかもしれないわ」
「え? 診察所を? まぁ、そうなんですか。ならば……」
診療所という言葉に、洋洋が反応する。意を決したように頷いた。
「ではよろしくお願いいたします。芽衣妃さまは私が説得いたします」
「ああ〜、翠鈴さま。気持ちいいですう。寝てしまいそう」
「寝なさい。蘭蘭、昨日また寝なかったでしょう」
「翠鈴さまが倒れられて皇帝陛下の寝所にいらっしゃるという知らせがあったのに、寝られるわけがないですよ。ご懐妊が判明したって話も同時に伝わってきたから、どちらにしてもドキドキして眠れなかったと思いますが。それにしても、翠鈴さまはお世継ぎを宿された大切なお身体なのに、こうしていただくのは申し訳ないですー」
「いいから、いいから。これは私からの命令よ。あなたの仕事なの」
そう言うと彼女は素直に目を閉じた。
ここで生きていくしかないのなら、あれこれと思い悩んでもしかたがない。今やれることをやるしかない。とりあえず、指圧の腕が鈍らないように、翠鈴は蘭蘭を揉んでいるというわけである。
劉弦は翠鈴を翡翠の手の使い手だと断言した。はじめは信じられないと思ったが、龍神である彼が言うならばそうなのだろうと今は思う。
翠鈴には小さな頃から人の身体に触れるだけで、不調を見抜く力があった。翡翠の手の使い手は龍神だけでなく、人の役にも立つのだ。ならば、その腕を無駄にせぬようにしていたい。
気持ちよさそうに目を閉じて蘭蘭が口を開いた。
「それにしても昨夜、懐妊定めの儀から戻られた他のお妃さま方は大騒ぎでしたよ。なかなかお休みになられなくて、女官長さまに叱られてようやく部屋に戻られたんです」
翠鈴は昨夜の大寺院での様子を思い出す。記憶がやや曖昧だが、確かにあの場も騒然としていた。興奮冷めやらぬまま後宮に戻ったのだろう。
「だけど懐妊なんて、全然実感が湧かないわ。間違いじゃないかと思うくらいよ。自分が子を産むなんて想像したこともなかったから」
思わず翠鈴は本音を口にする。誰かに聞かれた叱られそうな発言だが、今は蘭蘭しかいない。
「翠鈴さまはまだお若いですからね。そのように思われても仕方がないでしょう。はじめから覚悟を持って子を作る母親なんてそんなにたくさんおりません。生まれる時までにだんだんと気持ちが定まってくるものにございます……と、昔私の母が誰かに言っておりました」
訳知り顔で蘭蘭が言う。そういえば、蘭蘭のお母さんは子だくさんだった。
「ご安心くださいませ、翠鈴さま。私は、弟や妹が生まれるのをなん度も経験しております。お産に関してはたいていのことは心得ております」
「そう、頼りにしてるわ」
出産に関しては知識でしか知らない翠鈴にとってはありがたい話だった。
「ふふふ、きっと可愛いお世継ぎにございますよ。翠鈴さまはお美しいですし、私などお姿を拝見したことはありませんが、皇帝陛下もたいそう精悍でお美しい方だと聞きました」
その言葉に翠鈴は手を止めた。今朝のあの気持ちが蘇り、なにやら胸がざわざわとした。
「他のお妃さま方は、それはもう騒いでおられました。目にしただけでぼうっとなってしまうほどだと……。ここにいるお妃さま方は陛下に仕える定めです。陛下は陛下だというだけで、ありがたい存在ですが、それにしても美しい方でよかったとおっしゃっておられる方もいらっしゃいました。女官長さまに、罰当たりだとこっぴどく叱られておられましたが」
蘭蘭の話を聞くうちに、劉弦の優しい眼差しと頬を包んだ大きな手の温もりを思い出す。頬が熱くなるのを感じた。
この件に関しては梓萌の言う通りだと翠鈴は思う。相手は龍神さまなのだ。妃になるといっても、人間同士でいう恋愛感情のようなものは不要なはず……。
「あ、あいたた……! 翠鈴さま、少し痛いです」
蘭蘭が声をあげる。
翠鈴はハッとして手を止めた。
「あ、ごめんなさい」
知らず知らずのうちに力を入れすぎていたようだ。ふーっと深呼吸をして心を落ち着けようとしていると。
「なにやつ!」
蘭蘭が鋭く言って起き上がり、素早く窓を開けて外へ出る。外にいたと思しき人物と揉み合いになっている。慌てて翠鈴も行ってみると相手は年嵩の女官だった。
「は、離しなさいっ!」
女官は蘭蘭の手を振り払って一喝した。
「蘭蘭、あなたこんな乱暴なことをしてただでは済みませんよ」
蘭蘭は相手が先輩女官だと知って驚いたように手を離す。
代わりに翠鈴が、部屋の中から問いただした。
「手荒な真似をしたことは、謝ります。ですがなぜそのような場所に? 部屋を覗かれていたのでしょう?」
女官はぐっと言葉に詰まり答えなかった。
「翠鈴さま、女官長さまに報告いたしましょう。翠鈴さまは大切なお世継ぎを宿されておられるのですなにかあってからでは取り返しがつきません」
蘭蘭が言うと、女官がぎょっとした。
「わ、私はなにもそのような目的で覗いていたわけではございません。ただ……」
そこで言い淀み、迷うように視線を彷徨わせている。なにか事情がありそうだ。とりあえず翠鈴は彼女に部屋へ入るよう促した。
「それにしても蘭蘭、あなた素早いわね。まるで間者のようだったわよ」
部屋の中で女官を座らせてから、翠鈴は蘭蘭に言った。さっきの彼女の動きは、目を見張るものがあった。
「小さい頃から武術の道場に通っていて身の軽さには自信がありますから」
蘭蘭が胸を張って答えた。
女官がそんな蘭蘭を訝しむように見て口を開いた。
「いったいどうしてこんなに元気になったのです? つい最近まであんなに青白い顔をしていたのに。いったいなにをやったんです?」
問い詰めるように言う彼女を落ち着かせて、翠鈴が事情を聞くと。
彼女の名前は、洋洋。九十九の妃、芽衣妃付きの女官だという。
洋洋は芽衣が幼い頃から世話をしていた母親代わりのようなもので、遠く離れた故郷からついてきて一生懸命に世話をしている。
その芽衣が、最近体調が優れないのだという。顔色は悪いし食欲もない。夜もなかなか寝付けない日が続いているというのである。
「蘭蘭だってつい最近まで青い顔をしてふらふらしていたというのに、ここ数日はピンピンしています。翠鈴妃さま付きになってからにございますわ。いったいなにがあったのかと、少し覗かせていただいていたのです」
本当に芽衣のことを思っているのだろう。洋洋は、心底心配そうだった。
「事情はわかったわ洋洋、それは心配ね」
翠鈴が言うと、洋洋はやや驚いたように目をパチパチさせる。まさか翠鈴が同情するとは思わなかったようだ。寵愛を受けようが懐妊しようが、翠鈴はなんといっても緑族の娘、まさか人間らしい答えをもらえると思っていなかったのだろう。だからこそ、直接相談せずに、こっそり覗いていたのだ。
まず翠鈴は蘭蘭について説明する。
「蘭蘭は睡眠と栄養が足りていなかったから、青い顔をしてたのよ。たくさん食べて、よく休んだから元気になったのよ」
「では芽衣妃さまも同じようにすれば……」
「それはわからないわ、洋洋。まずは芽衣妃さまを診察させていただかないと」
同じような症状でも原因が同じだとは限らない。本人を診てみないと無責任なことは言えなかった。
「診察……にございますか。ですが、直接お会いになるのは、芽衣妃さまがなんとおっしゃるか……」
洋洋はいまひとつ乗り気ではないようだ。芽衣妃は嫌がることがわかっているからだろう。
もちろん、本人にその気がないのに無理強いはできない。でも、体調不良だという人の話を聞いて、放っておくことはできなかった。
「私、故郷では診療所を開いていたの。直接診せてもらえれば、芽衣妃さまの不調の原因がわかるかもしれないわ」
「え? 診察所を? まぁ、そうなんですか。ならば……」
診療所という言葉に、洋洋が反応する。意を決したように頷いた。
「ではよろしくお願いいたします。芽衣妃さまは私が説得いたします」