龍神の100番目の後宮妃

中庭の出来事

 劉弦に愛されていないけれど、皇后にならなくてはならない。
 その事実は、翠鈴の心に重くのしかかった。
 彼の顔を見るのも、その優しさに触れるのもつらくて、体調が優れないことを理由に、夜寝所へ行くのも断り自室へ籠るようになった。体調は日に日に悪くなる一方だった。
 散歩にも行かない翠鈴を中庭へ誘ったのは芽衣だった。

「中庭ならすぐにお部屋へ戻れるし、安心でしょ。日の光を浴びないとおかしくなるとおしえてくれたのは、翠鈴よ」

 それもそうだと考えて、芽衣とともに何日かぶりに中庭へ行く。長椅子に腰掛けると途端に貴人の妃たちに囲まれた。皆一様に心配そうな表情だ。

「翠鈴妃さま……。お顔を見られなくて寂しかったです」

「お会いできて嬉しいですが、あまり体調はよくなさそうですね」

「蘭蘭、この香を翠鈴さまに炊いて差し上げて。懐妊中の不快感を抑えてくれるの。実家から取り寄せたのよ」

「皆さま、ありがとうございます」

 翠鈴は心から言う。皆の気遣いが嬉しかった。久しぶりに見知った顔に囲まれて少し気分が晴れていく。芽衣の言葉の通りにしてよかったと思う。
 一方で、彼女たちの向こうでは貴妃たちが嫌そうにこちらを見ている。中庭に彼女たちが来ているのを不満に思っているのだろう。
「翠鈴妃さま、そこは華夢さまがいつもお座りになっておられる場所ですよ」

 きつい表情で、咎めるように言ったのは、張芸汎だ。
 すかさず芽衣が答えた。

「華夢妃さまは今お部屋にいらっしゃるじゃないですか。ですから……」

「いついらっしゃってもお座りいただけるよう空けておくのが、後宮の妃の務めにございます」

 芸汎の言葉に他の貴妃たちも頷いている。

「おのきくださいませ」

 詰め寄る芸汎から翠鈴を庇うように芽衣が立ち上がった。

「そのような決まりはありませんわ。それなのに、そのようななさりよう……。妃同士仲良くするのをお望みだと陛下はおっしゃったのを芸汎妃さまもお聞きになられていたでしょう?」

 毅然として言い返す芽衣に、貴人たちがそうだというように頷いた。
 芸汎が、弾かれたように笑い出した。

「まぁ、おかしい! お優しい陛下の建前を本気になさるなんて……!」

 扇子を口元を隠して、笑い続けている。
 貴妃たちもくすくすと笑い出した。

「これだから教養のない方は」

「少し考えたらわかるのにね」

 こちらに聞こえるように嫌味を言い合っている。

「華夢妃さまは、皇后さまになられる方なのですよ? 私たちと同じに考えるべきではありません。そのくらいわからないのですか?」

 勝ち誇ったように芸汎が言う。それはそうかもしれないが、そのような言いぐさはないと、翠鈴は思う。でも言い返す気力が湧かなかった。

「将来の皇后さまに逆らうなんて、あなたたちいい度胸ね!」

 芸汎は、高飛車に言ってぐるりと貴人たちを見回す。貴人たちは気まずそうに顔を見合わせた。でもその中のひとりが、ぽつりと呟いた。

「……そんなのわからないわ。翠鈴妃さまが皇后さまになられる可能性もあるじゃない」

 その言葉に、貴人たちがハッとしたような表情になり、同調した。

「そうよ。翠鈴妃さまは、お世継ぎをお生みになられるのよ。それにお人柄もお優しいし……私は翠鈴妃さまが、皇后さまになられる方がいい」

「私も、皇后さまは翠鈴妃さまがいいってお父さまに申し訳あげるわ」

「私も!」

「私もそうする」

 そう言って手を取り合い盛り上がっている。彼女たちの気持ちはありがたいが、翠鈴の胸は重くなった。
 どう考えても買いかぶりすぎだ。翠鈴には、皇后に相応しい器量も教養もない。ただの田舎娘だというのに。
 芸汎が鼻を鳴らした。

「馬鹿馬鹿しい。あなたたちの父親にいったいなんの権限があるというの? 華夢妃さまのお父さまは宰相さまなのよ。宰相さまは、陛下をお支えする重要な方、あなたたちの父親とは立場が違うんだから。教養のない方が皇后さまになるなんて、それこそ国はお先真っ暗よ!」

 ひどい言葉だがその通りだと翠鈴は思う。国の中枢を担う家臣の家柄に生まれて高い教育を受けてきた彼女とは雲泥の差だ。

「それに華夢妃さまは、翡翠の手の持ち主なのよ。宿命の妃なんだから」

 これで決まりだというように芸汎は言うが、芽衣が反論した。

「翠鈴だって不調を見抜く目があるわ。私はそれで病にならずに済んだんですもの」

「そうよ! 蘭蘭だってびっくりするくらい元気になったじゃない。華夢妃さまより翠鈴妃さまの方がよっぽど……」

「皆さま」

 不毛なやり取りを遮る声がして、皆そちらへ注目する。華夢妃だった。

「騒ぐのはおやめなさい。妃として振る舞いではありませんよ」

 そう言って、皆の中心へやって来る。突然の彼女の登場に、貴人も貴妃も皆、黙り込んだ。

「どなたが皇后さまになられるかは、私たちが決めることではありません」

 言い切ってぐるりと皆を見回した。

「お世継ぎをお生みになられる方を皇后さまにと考えるのは当然です。皆さまのお気持ちはわかりますわ。……なれど」

 華夢は言葉を切り、翠鈴を見た。

「翠鈴妃さまが来られてからこのようなことばかりにございます。以前は保たれていた後宮の秩序がここのところ乱れっぱなし。しかもいつもその原因は翠鈴妃さま」

 手にしていた扇をパチンと閉じた。

「皇后さまになられるというならばもう少しご自身の振る舞い方をご自覚くださまし。皇后さまはこの後宮を治める方なのでございますよ」

 鋭く言って踵を返す。透ける素材の長い袖をヒラヒラさせて去って行った。慌てて芸汎があとに続いた。
 その後ろ姿を見つめながら、翠鈴は暗澹たる思いになっていた。
 皇后になりたいなどとは思わない。そのための教養も自覚もないのだから。それでも、彼女の言葉は翠鈴の胸に突き刺さり、じくじくと痛んだ。
 華夢が去ったあとは、その場は解散になる。翠鈴も芽衣と別れて自室に戻ることにした。
 途中、一の妃の部屋の前を通りかかると、開きっぱなしの扉の向こうから、華夢の苛立った声が聞こえた。

「私の名前をあんな風に出さないで。万が一にでも陛下のお耳に入ったらどうするのよ」

「も、申し訳ありません。ですが翠鈴妃さまに、あの場所から翠鈴妃さまにおのきいただくようにせよとおっしゃられたのは、華夢妃さまで……」

 答える芸汎の声は、さっきとは打って変わっておどおどしている。それに華夢が激昂する。

「だから、もう少しうまくやりなさいって言ってるの! あんなやり方、私の品位を貶めるやり方だわ。芸汎、あなたがこんなに無能だとは思わなかった。できないならいいわ、他の者に頼むから。もちろんその場合は、私が皇后になっても指名の話はなしよ。そしたらあなたなんて一生陛下に寵愛してもらえないわ。その見た目じゃね!」

 よほど苛ついているのだろう。扉を閉めるのも忘れて芸汎を罵っている。
 芸汎が慌てて声をあげた。

「華夢妃さま……! そんなことをおっしゃらないでください。もっとちゃんとやりますから」

「そう? ならもう少しだけ、機会をあげる。でももう今日みたいな手ぬるいのは見たくないわ」

「手ぬるいって……。今よりももっと……にごさいますか?」

「そうよ、あの女が自らここを出ていきたくなるくらい、追い詰めるのよ。わかったわね?」

 華夢の言葉を聞いて、翠鈴と蘭蘭はそっとその場を後にした。
 自室へ戻りしっかり扉を閉めてから、椅子に座り暗澹たる思いでため息をついた。

「どうしてあんなことを言われてまで、華夢妃さまのそばにいるのかしら……」

 人間なのだから相手の好き嫌いは仕方がない。翠鈴よりも華夢が皇后に相応しいのもその通りだ。でもあそこまで言われて、それでも彼女に従うのが理解できなかった。

「指名していただくためだからって……」

「芸汎妃さまは、実家からの期待が他の方より大きいのです」

 まるでなにかを知っているかのような口ぶりの蘭蘭に、翠鈴は首を傾げた。

「蘭蘭、あなた芸汎妃さまを個人的に知ってるの?」

 蘭蘭が少し気まずそうに、首を横に振った。

「いえ、そうではなくて……以前、芸汎妃さまのご実家からのお手紙を拾ったことがあるんです。も、もちろん、中を読むつもりはなかったんですが、どなたのものか確認するために仕方なく……。そしたら翠鈴妃さまの名前が書いてあったのでつい……」

「私の名前が?」

「はい。芸汎妃さまのお父上さまは、翠鈴妃さまがご寵愛を受けられたことを怒っていらっしゃいました。お前は役立たずだ、器量の悪い娘を持って自分は不幸だと、それはそれはひどい言葉で」

 器量が悪いだなんて、父親が娘に使う言葉ではないと翠鈴は思う。しかも実家を離れて後宮でひとり暮らしている娘に……。

「自力では寵愛を受ける可能性はないんだから、華夢妃さまに取り入って、指名してもらうようにと書いてありました。失敗したら、お前なんていらない、張家の恥晒しだ、とまで……娘にあんな風に言う父親がいるんですね」

 蘭蘭が憂うつな表情でため息をついた。
 温かい家族で育った、家族思いの彼女からしたら考えられないことなのだろう。
 翠鈴にとっても同じだった。だけど父親からそんな風に言われているのなら、躍起になって翠鈴を追い出そうとするのも頷ける。
 華夢に許しを乞うていた芸汎妃の悲痛な声が耳から離れず、胸が痛かった。彼女は、ただの意地悪で嫌がらせをしているわけではない……。
 貴人の妃たちだって、打ち解けてみれば普通の心優しい娘たちだった。おそらくは貴妃たちも……。
 繊細な作りの赤い灯籠がいくつも下がる天井を翠鈴は見上げた。ここは、美しく豪華な造りの大きな鳥籠。本当なら自由なはずの鳥たちを閉じ込めているのだ。
 自分と、彼女たちの行先に思いを馳せて、翠鈴はため息をついた。
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