龍神の100番目の後宮妃

後宮

一行が紅禁城内にある後宮に着いたのは、とっぷりと日が暮れた後だった。
 さすがに罪人の籠に入れた者を連れて正門を通るわけにいかないということだろう、着いたのは裏口と思しき場所だった。
 そこで翠鈴はようやく籠から下された。唯一持って来ることを許された着替えが入った包みを持ったまま翠鈴は、うーんと身体を伸ばして、関節をぐるぐる回す。丸三日寝る時以外は小さく座った格好だったから、あちこちががちがちだった。
 一行を出迎えたのは、でっぷりと太った年嵩の女官だった。

「白菊さま、いかがなさいました? このような時間に。……この者は?」

「百の妃だ。皇帝陛下の命により連れてきた。部屋を与え世話をするように」

「ひゃっ……、百の妃……!? こ、この者がですか?」

 女官が声をあげてじろじろと不躾に翠鈴を見る。初対面の相手に決して褒められた行為ではないが、無理もなかった。
 翠鈴は捕えられた時の格好、つまり患者を診察する時の作務衣を着ている。しかも三日三晩籠に揺られて来て、ろくに身を清めてもいないから、ドロドロである。
 こんななりの女が皇帝の妃というのはとても信じられないのだろう。

「皇帝陛下に会わせられるよう、準備させろ。なるべく早くだ。私は皇帝陛下へ報告をしに行く」

 そう言ってこちらへ背を向ける白菊を翠鈴は慌てて呼び止めた。

「白菊さま」

 白菊が足を止めて振り返った。

「先ほどのお話、……お約束を守ってくださいますね」

 恐れる気持ちを奮い立たせて尋ねる。
 白菊がやや意外そうな表情になった。怯えて小さくなっていた翠鈴が、念を押したことに驚いているようだ。不快に思われるだろうかという考えが頭を掠めるが、怯まなかった。
 翠鈴を攫った彼の目的を聞いてから、いつもの自分を少し取り戻しつつあるのを感じている。とりあえず、命を取られることはなさそうだと安心したからだ。
 祖父を亡くしてから、ひとりで診療所を切り盛りして生きてきたのだ。そこらの箱入り娘とは訳が違う。
 赤い目をジッと見つめると、白菊がニヤッと笑う。

「もちろんです。ことが終わればすぐにでも約束を果たしましょう」

 そしてシュッという音とともに姿を消した。
 翠鈴がホッと息を吐くと、女官が口を開いた。

「あなた、名は?」

「翠鈴です」

「翠鈴……妃さま」

 釈然としない様子で翠鈴の名を繰り返す。翠鈴が妃だということがやはり腑に落ちないのだろう。しばらく逡巡していたが、やがてため息をついて気を取り直したように口を開いた。

「私は、女官長をしております梓萌(ズムォン)と申します。後宮全体の管理をしておりますので、なんなりとお申し付けくださいませ」

 口調は丁寧だが、翠鈴などに仕えるのは不本意だというのがありありとわかる態度だった。

「とにかくこちらへ」

 冷たく言って踵を返す。さっさと建物の中に入る背中を、翠鈴は慌てて追った。
 扉の向こうは女官たちの居住区のようだった。ずらりと並ぶ小部屋の中に、それぞれ寝台が四つほど、おそらく休憩中であろう女官たちが思い思いの時を過ごしている。
 廊下を早足で進んでいくふたりに気がついた女官から声がかかる。

「女官長さま、その者は?」

 女官としての新参者だと思ったのだろう。翠鈴を頭のてっぺんから足元までをジロジロと見て、眉を寄せている。ドロドロの翠鈴への嫌悪感を隠そうともしていない。
 梓萌が立ち止まり、彼女に答えた。

「百の妃さま、緑翠鈴妃さまです」

「ひゃっ……!? では、緑族の……?」

 女官は驚くと同時に恐ろしいものを見たという表情になる。他の女官たちも集まってきて、ヒソヒソとなにかを言い合っている。
 彼女たちの反応は納得だ。でも侮蔑の色を浮かべた視線を遠慮なく浴びせられるという状況は気持ちのいいものではない。
 皇帝に会うまでの辛抱だと翠鈴は自分自身に言い聞かせた。

「ちょうどいいわ、お前たち。今からお妃さま方の、お部屋を回り、百のお妃さまが到着したと知られて来なさい」

 梓萌の指示に、女官たちが頭を下げて去っていった。

「さて」

 梓萌が、翠鈴に向き直った。

「翠鈴妃さま、これからお部屋へご案内いたします。……後宮の仕組みや決まりについてはご存知ですか?」

 やや高飛車に言う彼女からの問いかけに、翠鈴は首を横に振った。そんなもの知っているはずがなかった。

「都へ来るのもはじめてです」

 答えると、梓萌がため息をついた。
「ここ、紅禁城は三つに分けられます。まず街に面しているのが、(まつりごと)を行う宮廷、その後ろに皇帝陛下がお住まいである宮です。さらにそこから渡り廊下で繋がっている場所が、ここ後宮です。広い中庭を囲むようにお妃さま方のお部屋が並んでおりまして、皇帝陛下の宮に一番近い部屋から一の妃さまがお住まいになられております。お妃さまの数字は、皇帝陛下の寵愛の深さ、お父上の役職により決まります。翠鈴妃さまは、百番目のお部屋にご案内いたします」

 梓萌は『百番目』というところを強調するように言う。おそらくは妃たちの間では、不名誉なことなのだろう。とはいえ翠鈴はなんとも思わなかった。
 長旅でへとへとだ。とにかく何番でもいいから早く部屋へ行って休みたかった。

「その他の決まりは……、まぁおいおいわかるでしょう。ではまいりましょう」

 そう言って梓萌はまた歩き出す。
 翠鈴は後を追った。
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