龍神の100番目の後宮妃
蘭蘭
長旅でくたくたに疲れていた翠鈴だが、贅沢な夕食とちゃんとした寝台でぐっすり眠ったことで、朝には元気を取り戻した。
そして起きてからまず取り掛かったのは部屋の掃除である。翠鈴に与えられた部屋は、立派だけれどとにかく埃っぽい。数日でも過ごすなら、なるべく綺麗なところで気持ちよく過ごしたかった。
さいわいにして、掃除道具はすでにたくさん部屋の中にある。まずは窓を覆ってあった黒い幕を取り払い、朝日を部屋の中に取り込む。窓や窓枠、机と椅子を雑巾で拭いていると梓萌に指示されたと思しき女官たちが、物置の物を移動させるためにやってきた。朝早くから掃除をしている翠鈴に驚いている。
「ちょうどよかった。寝台の布を取り替えたいから、洗濯が済んだ物をいただけないかしら?」
翠鈴の頼みに目を丸くして頷いた。彼女たちの向こうでは、目を覚ました妃たちが、部屋を覗き込みまたヒソヒソと話をしている。朝から掃除を始めた翠鈴に驚いているようだ。
部屋の物の運び出しを終えて床もピカピカになり、寝台の布も替えてひと息ついた時、若い女官がやってきた。
「す、翠鈴妃さま、ちょ、朝食を、お、お持ちいたしました……」
聞き取るのがようやくというほど、細い声だ。手にしている食事を載せた盆がカタカタと揺れている。なにもそんなに、というほど怯えているのが可哀想になるほどだ。
「ありがとう」
答えると、彼女は恐る恐るといった様子で部屋の中へ入ってきて机の上に盆を置く。今日はちゃんと妃用の食事なのだろう。汁物と白い飯の他に青菜の炒め物や果物など三品ほどの皿が並んでいる。
「朝食は三品なのね」
覗き込み、翠鈴は呟いた。さすがは後宮、朝から豪華だ。汁物と飯の他に、三品もおかずが付くなんて。祭りの時に村の皆で食べるご馳走のようだった。
朝からたくさん働いた翠鈴のお腹がぐーっと鳴った時、女官がしゃがみ込み床に額をつけた。
「申し訳ございませんっ!」
突然の出来事に、翠鈴はお腹に手を当てたまま固まった。震える女官の肩を見つめながら口を開いた。
「とりあえず、そんなところにぺったんこになってないで、ちゃんと椅子に座ってちょうだい」
声をかけると彼女は驚いたように顔を上げる。翠鈴よりも二、三歳若くどこか幼さの残る素朴な娘だった。
怯える彼女を椅子に座らせ、翠鈴は事情を聞くことにする。涙を浮かべてつっかえながら答える彼女からようやく聞き出せたのは、持ってきた朝食の品数が他の妃よりも少ないということだ。
後宮では妃の位によって食事の品数が決まっているのだという。
皇后と皇貴妃は十品、貴妃が七品、貴人は五品という具合だ。翠鈴は貴人だから本当なら五品持ってこなくてはならなかった。でも今ここにある食事は三品で、そのことについて謝っていたというわけだ。
彼女は詳細を語らなかったが、細くて青い顔をしたこの女官がそうせざるをえなかった事情は、なんとなく想像がついた。
前日の女官と妃たちの反応から、ここでは翠鈴が招かざる客であるのは明らかだ。進んで世話をしたいと思う女官など皆無だろう。
おそらくこの痩せ細った女官は皆に嫌な仕事を押し付けられたのだ。しかも嫌がらせのように、品数が足りない食事を持っていくように言われたところから考えると、この女官が、他の女官たちからいい扱いを受けていないこと予想がついた。
かわいそうに、と翠鈴は同情する。まだ若い彼女が気の毒だった。
身を屈めて、うつむく彼女に視線を合わせた。
「あなた、名前は?」
「……蘭蘭です」
「蘭蘭、私が昨日ここへ来たのは、予定外のことだったんでしょう? なにもなくてもおかしくないのに、三品も持ってきてくれるなんて、ありがたいわ」
そう声をかけると、彼女は驚いたように翠鈴を見る。目にみるみる涙が溜まってあっという間に溢れ出した。
涙を拭く手に、長い棒で打ったようなあざを見つけて翠鈴の胸は痛んだ。彼女に罰を与えたのは妃たちだろうか? なんてひどい仕打ちだろう。
昨夜ここで饅頭を食べた時は、後宮(ここ)も悪くないと思ったけれど、今は真逆の意見だった。なんて恐ろしい場所なのだ。
さらに気にかかるのは、彼女の顔色だった。真っ青で体調がよくないのは明らかだ。目の下のくまも気になった。
蘭蘭が落ち着いたのを見計らって、翠鈴は彼女の手を取った。
「ちょっと診せてね」
「あ、あの……?」
戸惑う彼女の指先は氷のように冷たい。翠鈴の頭が瞬時に切り替わった。
「蘭蘭、舌を出して」
「え……?」
「こうやって。べー」
「? べー」
素早く視線を走らせて、まずはホッと息を吐く。
「悪い病があるわけではなさそうね。寝不足と栄養失調かしら。その寝台にうつ伏せに寝てくれる?」
翠鈴が指示すると、蘭蘭はギョッと目を剥いた。
「そ、そういうわけには……」
「大丈夫、さっき敷布を替えたところだから」
「そ、そうではなくてお妃さまの寝台に私が乗るわけにはいきません。女官長さまに知られたら叱られてしまいます」
ぶんぶんと首を振っている。
「さっき物は運び終えたから、もう誰も来ないわよ。誰も私の世話をしたくないから、蘭蘭が来たんでしょ」
「で、でも……」
「早くしないと、蘭蘭が妃に従わないっていいつけようかしら?」
かわいそうだと思いながらも、脅かすように言うと、彼女はビクッとして慌てて翠鈴の言う通りにする。痩せた細い背中に翠鈴は手をあてた。
やはり、取り立てて悪そうな箇所はない。睡眠不足と疲労、栄養が行き届いていないというところだろう。
「あまり寝られていないわね、食事もちゃんと食べていないでしょう」
腕を枕にした蘭蘭が、くぐもった声を出した。
「私はほかの人よりものろまですから、なにをするにも他の人よりもたくさん時間がかかります。寝る暇も食べる暇もありません」
その言葉に、翠鈴の胸が痛んだ。
自分のことをはじめからそんな風に言うことはないだろうから、きっと誰かに言われたのだろう。
「……今日の朝ごはんは食べたの?」
「まだです」
とりあえず、背中から手を離すと彼女は起き上がる。寝台に座ったままの彼女の前に、翠鈴は自分の朝食が載った机を引き寄せた。
「じゃあ、今から食べなさい。普段からあまり食べられていないなら、お腹に優しいものがいいわね。飯に汁をかけてあげようか? 果物は好き?」
またもや、蘭蘭がギョッとした。
「そ、そんな……! お妃さま用の食事に私が手をつけるわけにはいきません。見つかったら叱られます。女官には女官用の食事が用意されていますから」
「だけど、それじゃあなたは、ちゃんと食べられないでしょ」
「でもこれは翠鈴妃さまの分ですのに」
「私はこの肉入り饅頭で十分よ。私、この饅頭大好きなの。さっき蘭蘭は、三品しか持ってこられなかったって言ったけど、その中に饅頭があるなら上出来よ」
そう言って翠鈴は、饅頭にかぶりつく。彼女が気後れしないように先に食べてしまうことにする。もぐもぐする翠鈴を、蘭蘭は唖然として見ている。
「ほら、私はもうお腹いっぱい。これ以上は食べられないから、蘭蘭が食べないなら、これは食堂に返すことになるけど……」
そう言うと蘭蘭は、ごくりと喉を鳴らした。箸を彼女に持たせると、翠鈴を伺うように見る。翠鈴がにっこり笑って頷くと、思い切ったように飯を口に入れる。あとは夢中で食べ出した。
その姿に、翠鈴はホッとする。とにかく食べれられれば、顔色はよくなるはずだ。
あっという間に食べ終えた彼女を、翠鈴は寝台に寝かせる。
「本当は食べてすぐに横になるのはあまりよくないんだけど、とにかく疲れを取るのが先だわ。今日は一日寝ていなさい」
「そ、そういうわけにはいきません。女官はお妃さまより先に寝てはいけない決まりです」
「蘭蘭、あなた病になる一歩手前よ。病人に妃も女官もないでしょう。大丈夫、蘭蘭には私が難しい仕事を頼んだせいで一日部屋から出られないってことにしておくから。とにかく目をつぶりなさい」
翠鈴はそう言って蘭蘭に布団をかける。それでも蘭蘭は「でも……」と言うが、冷たい足を揉んでやると気持ちよさそうにうとうととして、やがて寝息を立てだした。
そして起きてからまず取り掛かったのは部屋の掃除である。翠鈴に与えられた部屋は、立派だけれどとにかく埃っぽい。数日でも過ごすなら、なるべく綺麗なところで気持ちよく過ごしたかった。
さいわいにして、掃除道具はすでにたくさん部屋の中にある。まずは窓を覆ってあった黒い幕を取り払い、朝日を部屋の中に取り込む。窓や窓枠、机と椅子を雑巾で拭いていると梓萌に指示されたと思しき女官たちが、物置の物を移動させるためにやってきた。朝早くから掃除をしている翠鈴に驚いている。
「ちょうどよかった。寝台の布を取り替えたいから、洗濯が済んだ物をいただけないかしら?」
翠鈴の頼みに目を丸くして頷いた。彼女たちの向こうでは、目を覚ました妃たちが、部屋を覗き込みまたヒソヒソと話をしている。朝から掃除を始めた翠鈴に驚いているようだ。
部屋の物の運び出しを終えて床もピカピカになり、寝台の布も替えてひと息ついた時、若い女官がやってきた。
「す、翠鈴妃さま、ちょ、朝食を、お、お持ちいたしました……」
聞き取るのがようやくというほど、細い声だ。手にしている食事を載せた盆がカタカタと揺れている。なにもそんなに、というほど怯えているのが可哀想になるほどだ。
「ありがとう」
答えると、彼女は恐る恐るといった様子で部屋の中へ入ってきて机の上に盆を置く。今日はちゃんと妃用の食事なのだろう。汁物と白い飯の他に青菜の炒め物や果物など三品ほどの皿が並んでいる。
「朝食は三品なのね」
覗き込み、翠鈴は呟いた。さすがは後宮、朝から豪華だ。汁物と飯の他に、三品もおかずが付くなんて。祭りの時に村の皆で食べるご馳走のようだった。
朝からたくさん働いた翠鈴のお腹がぐーっと鳴った時、女官がしゃがみ込み床に額をつけた。
「申し訳ございませんっ!」
突然の出来事に、翠鈴はお腹に手を当てたまま固まった。震える女官の肩を見つめながら口を開いた。
「とりあえず、そんなところにぺったんこになってないで、ちゃんと椅子に座ってちょうだい」
声をかけると彼女は驚いたように顔を上げる。翠鈴よりも二、三歳若くどこか幼さの残る素朴な娘だった。
怯える彼女を椅子に座らせ、翠鈴は事情を聞くことにする。涙を浮かべてつっかえながら答える彼女からようやく聞き出せたのは、持ってきた朝食の品数が他の妃よりも少ないということだ。
後宮では妃の位によって食事の品数が決まっているのだという。
皇后と皇貴妃は十品、貴妃が七品、貴人は五品という具合だ。翠鈴は貴人だから本当なら五品持ってこなくてはならなかった。でも今ここにある食事は三品で、そのことについて謝っていたというわけだ。
彼女は詳細を語らなかったが、細くて青い顔をしたこの女官がそうせざるをえなかった事情は、なんとなく想像がついた。
前日の女官と妃たちの反応から、ここでは翠鈴が招かざる客であるのは明らかだ。進んで世話をしたいと思う女官など皆無だろう。
おそらくこの痩せ細った女官は皆に嫌な仕事を押し付けられたのだ。しかも嫌がらせのように、品数が足りない食事を持っていくように言われたところから考えると、この女官が、他の女官たちからいい扱いを受けていないこと予想がついた。
かわいそうに、と翠鈴は同情する。まだ若い彼女が気の毒だった。
身を屈めて、うつむく彼女に視線を合わせた。
「あなた、名前は?」
「……蘭蘭です」
「蘭蘭、私が昨日ここへ来たのは、予定外のことだったんでしょう? なにもなくてもおかしくないのに、三品も持ってきてくれるなんて、ありがたいわ」
そう声をかけると、彼女は驚いたように翠鈴を見る。目にみるみる涙が溜まってあっという間に溢れ出した。
涙を拭く手に、長い棒で打ったようなあざを見つけて翠鈴の胸は痛んだ。彼女に罰を与えたのは妃たちだろうか? なんてひどい仕打ちだろう。
昨夜ここで饅頭を食べた時は、後宮(ここ)も悪くないと思ったけれど、今は真逆の意見だった。なんて恐ろしい場所なのだ。
さらに気にかかるのは、彼女の顔色だった。真っ青で体調がよくないのは明らかだ。目の下のくまも気になった。
蘭蘭が落ち着いたのを見計らって、翠鈴は彼女の手を取った。
「ちょっと診せてね」
「あ、あの……?」
戸惑う彼女の指先は氷のように冷たい。翠鈴の頭が瞬時に切り替わった。
「蘭蘭、舌を出して」
「え……?」
「こうやって。べー」
「? べー」
素早く視線を走らせて、まずはホッと息を吐く。
「悪い病があるわけではなさそうね。寝不足と栄養失調かしら。その寝台にうつ伏せに寝てくれる?」
翠鈴が指示すると、蘭蘭はギョッと目を剥いた。
「そ、そういうわけには……」
「大丈夫、さっき敷布を替えたところだから」
「そ、そうではなくてお妃さまの寝台に私が乗るわけにはいきません。女官長さまに知られたら叱られてしまいます」
ぶんぶんと首を振っている。
「さっき物は運び終えたから、もう誰も来ないわよ。誰も私の世話をしたくないから、蘭蘭が来たんでしょ」
「で、でも……」
「早くしないと、蘭蘭が妃に従わないっていいつけようかしら?」
かわいそうだと思いながらも、脅かすように言うと、彼女はビクッとして慌てて翠鈴の言う通りにする。痩せた細い背中に翠鈴は手をあてた。
やはり、取り立てて悪そうな箇所はない。睡眠不足と疲労、栄養が行き届いていないというところだろう。
「あまり寝られていないわね、食事もちゃんと食べていないでしょう」
腕を枕にした蘭蘭が、くぐもった声を出した。
「私はほかの人よりものろまですから、なにをするにも他の人よりもたくさん時間がかかります。寝る暇も食べる暇もありません」
その言葉に、翠鈴の胸が痛んだ。
自分のことをはじめからそんな風に言うことはないだろうから、きっと誰かに言われたのだろう。
「……今日の朝ごはんは食べたの?」
「まだです」
とりあえず、背中から手を離すと彼女は起き上がる。寝台に座ったままの彼女の前に、翠鈴は自分の朝食が載った机を引き寄せた。
「じゃあ、今から食べなさい。普段からあまり食べられていないなら、お腹に優しいものがいいわね。飯に汁をかけてあげようか? 果物は好き?」
またもや、蘭蘭がギョッとした。
「そ、そんな……! お妃さま用の食事に私が手をつけるわけにはいきません。見つかったら叱られます。女官には女官用の食事が用意されていますから」
「だけど、それじゃあなたは、ちゃんと食べられないでしょ」
「でもこれは翠鈴妃さまの分ですのに」
「私はこの肉入り饅頭で十分よ。私、この饅頭大好きなの。さっき蘭蘭は、三品しか持ってこられなかったって言ったけど、その中に饅頭があるなら上出来よ」
そう言って翠鈴は、饅頭にかぶりつく。彼女が気後れしないように先に食べてしまうことにする。もぐもぐする翠鈴を、蘭蘭は唖然として見ている。
「ほら、私はもうお腹いっぱい。これ以上は食べられないから、蘭蘭が食べないなら、これは食堂に返すことになるけど……」
そう言うと蘭蘭は、ごくりと喉を鳴らした。箸を彼女に持たせると、翠鈴を伺うように見る。翠鈴がにっこり笑って頷くと、思い切ったように飯を口に入れる。あとは夢中で食べ出した。
その姿に、翠鈴はホッとする。とにかく食べれられれば、顔色はよくなるはずだ。
あっという間に食べ終えた彼女を、翠鈴は寝台に寝かせる。
「本当は食べてすぐに横になるのはあまりよくないんだけど、とにかく疲れを取るのが先だわ。今日は一日寝ていなさい」
「そ、そういうわけにはいきません。女官はお妃さまより先に寝てはいけない決まりです」
「蘭蘭、あなた病になる一歩手前よ。病人に妃も女官もないでしょう。大丈夫、蘭蘭には私が難しい仕事を頼んだせいで一日部屋から出られないってことにしておくから。とにかく目をつぶりなさい」
翠鈴はそう言って蘭蘭に布団をかける。それでも蘭蘭は「でも……」と言うが、冷たい足を揉んでやると気持ちよさそうにうとうととして、やがて寝息を立てだした。