青い鳥はつぶやかない 堅物地味子の私がベリが丘タウンで御曹司に拾われました
◇
中層階用のエレベーターからエントランスホールへ出たところで、史香はいったん立ち止まった。
なんだか視界が揺らいでいる。
ふらつく足取りで回転ドアを押しながら外へ出ると、乾いたビル風が首筋を撫でていく。
憧れの街と言われる『ベリが丘』は駅を挟んで南北で顔が変わる。
戦前からの高級住宅街であるノースエリアは櫻坂と呼ばれる並木道沿いにセレブ御用達のブティックが並び、大使館やオーベルジュもあって落ち着いた雰囲気に包まれている。
近年開発が進んだサウスエリアは駅から国際港へと続くBCストリートを挟んでショッピングモールと五つ星ホテルが開業して注目を浴び、ツインタワーは隣接するビジネスエリアのシンボルとなっていた。
豪華客船も寄港するベイエリアの夜景を楽しめる最上階の展望台は、人気女優久永里桜主演映画のラストシーンで話題になったばかりだ。
だが、さすがにこの時間になると人通りはほとんどなくなる。
ビルの前を通り過ぎていく車は史香には縁のない高級車だらけだ。
幾何学的に刈り込まれた街路樹には、さっきまでゴージャスなイルミネーションが輝いていたはずなのに、すでに消灯されていて街はコーヒーゼリーで固められたように真っ暗だった。
イルミネーションが始まったのは先月だけど、残業続きで、片手で数えられる程度しか見たことがない。
どうせ自分にはそんなおしゃれな風景なんか似合わないもんね。
クリスマスなんて、今までだって何もなかったし。
これからもただの師走なんだろう。
プロムナードを駅へ向かいながら、史香はアパートの冷蔵庫の中身を思い起こしていた。
夕飯、何かあったかな。
そういえば、お昼は何を食べたんだっけ。
仕事のことばかり考えていて、他のことは何も覚えていない。
あまりにも忙しすぎて、お昼を食べていないことにすら気づかなかった日もたまにあるくらいだ。
そんな生活がもう五年も続いている。
食事も身だしなみも休日の予定すら自分の好みで決める余裕などない。
すべて惰性だ。
給与こそ、残業代は支払われているけど、基本給が低いし、体力の消耗以上に気力が削られる職場は離職者も多い。
育休の前任者も、おそらくもどっては来ないだろう。
そんな会社だからこそ、プロジェクトを任されたというより、押しつけられたのだ。
滑走路のようにまっすぐ水平に伸びるBCストリートまで来て赤信号で立ち止まり、何度目かのため息をついた時だった。
揺らいでいた視界が急にゆがみ始めた。
――えっ?
二つに割れた風景が、古い映画の特殊効果のようにぐにょりと渦を巻き始める。
何これ、気持ち悪い。
ジェットコースターに逆さ吊りにされて振り回されているみたいだ。
吐き気をこらえながら史香は歩行者用信号の柱につかまってうずくまった。
経験したことのないめまいに襲われ、ぎゅっと瞼を閉じる。
目を開けてしまうと吐き気がこみ上げてくる。
――どうしよう。
助けを求めようにも、周囲には誰もいない。
かろうじてスマホをつかんだ時には、歩道の石畳に倒れていた。
信号が変わり停止線にロングボディのセダンが止まる。
歩行者信号が点滅し、切り替わろうとした時だった。
セダンの後部ドアが開き、細身のスーツ姿の男が姿を現した。
史香のもとへと駆け寄ると声をかけたが、彼女は顔を向けることすらできなかった。
運転席からも背筋の伸びたグレイヘアの男が出てくる。
「蒼馬様、救急車を手配いたしましょうか」
「いや、この車で病院へ運んだ方が早いだろう。佐久山、手を貸してくれ」
「かしこまりました」
若い男は自分の上着を脱いで史香の体をくるむと、二人がかりで彼女を後部座席に乗せた。
黒塗りのセダンはノースエリアへ向かって静かに去っていった。