乳房星(たらちねぼし)−1・0
【傷だらけのローラ】
私は、終点の熊本駅で寝台特急《れっしゃ》から降りたあと大番頭《おおばんと》はんたちを探す旅を始めた。
私は、九州北部と関西の2つのエリアの各地をまわって大番頭《おおばんと》はんたちを探し回った。
しかし、大番頭《おおばんと》はどこにもいなかった。
困った…
どうすればいいのだ…
私は、ひどくコンワクした。
前回(1981年夏から1982年1月)の放浪《たび》で危機を脱することができたのは一通の電報であった。
送り主はだれかは分からないが、こう記されていた。
1ガツ25ニチゴゴ3ジマデニシモノセキのカンプフェリーノノリバヘムカエ…
私は、電文にしたがう形で下関国際ターミナルへ向かった。
1982年1月25日の午後2時半頃に下関国際ターミナルに到着した。
到着したあと、待合室でドナ姐《ねえ》はんとあった。
その後、夜7時発の関釜フェリーに乗って日本から出国した。
翌朝8時半頃にプサンの国際ターミナルに到着した。
午後1時頃に、私とドナ姐《ねえ》はんはデルタ航空のチャーター便に乗ってアメリカ合衆国へ向かった。
それで危機的な事態をまぬがれることができた…
しかし、今回は前回と違ってより過酷な状況におちいった。
最悪の事態が発生することも考えられる…
どうしよう…
どうすればいいのだ…
それからまた時は流れて…8月末頃であった。
(ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ…)
この年(1994年)の夏は、より過酷な暑さにおそわれた。
この年の梅雨の時期は、雨が極力少なかった…
梅雨明け以降も晴れの日が続いた。
西日本〜東日本を中心に35度以上の猛暑日が続いたことが原因でダムの水が干上がるなどで深刻な水不足が生じた。
これで、何日目だ…
このまままとまった雨がふらなければ…
よりサイアクな事態が生じるかもしれない…
私は、そんな過酷な状況の中で大番頭《おおばんと》はんたちを探し続けた。
しかし…
大番頭《おおばんと》はんたちを見つけることができなかった。
時は、8月30日の昼前のことであった。
「はあ〜…しんどい…」
(ドサッ…)
場所はどこであったかよくおぼえていないが、私は脱水症状を起こす一歩手前におちいった。
木陰に設置されているベンチに座った私は、近くにあるローソン(コンビニ)で購入した500ミリリットル缶のペプシコーラのフタをあけてゴクゴクとのんだ。
8月末だと言うのに、この暑さは一体なんなのだ…
これはジンジョーではない!!
心身ともにふらついている私は、ベンチに寝転んだ。
この時であった。
私は、1970年の春ごろを思い出した…
あの時…
私は…
アメリカ海兵隊の基地で…
ブートキャンプの日々を送っていた…
時は、1970年3月31日の昼過ぎであった。
またところ変わって、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにある海兵隊の基地にて…
基地内にある運動場で新兵さんたちのブートキャンプが行われていた。
私は、新兵さんたちと一緒に腕立て伏せをしていた。
オニ教官の怒鳴り声が運動場に響いた。
「ナインティーンセブン、ナインティーンエイト、ナインティーンナイン、ハンドレッド!!…ほらあと100行くぞ!!…ワン!!ツー!!スリー!!」
きつい…
ホンマにどぎつい…
けど…
逃げることはできない…
私は、必死に歯を食いしばりながら腕立て伏せをしていた。
ブートキャンプ中、私はオニ教官から『アホ!!』『マヌケ!!』『コラ!!』『たわけ!!』『ナマクラ!!』『ドジ!!』…と言われまくった。
こんぼうでしりを激しくたたかれるなど…しわき回されたこともあった。
それでも、必死になってついて行った。
置いてけぼりになるものかとつぶやきながらどぎつい訓練にたえた…
でも…
陸上自衛隊少年工科学校《りくじのだんしこう》〜防衛大学校にいた時がより過酷だった。
あの時は、学生運動が行われていた時期だったので寮から一歩も外へ出るなと厳命された…
私は、勤勉ひとすじの激まじめ人間だったので外へ出なかった。
しかし、一部の生徒・学生は厳命をやぶって外へ出ていった…
私は、厳命をやぶって外へ出ていった生徒・学生たちをよりするどい目つきでにらみつけながらつぶやいた。
あの野郎!!
ふざけるなよ!!
勝手なことをするんじゃねえよ!!
私は、九州北部と関西の2つのエリアの各地をまわって大番頭《おおばんと》はんたちを探し回った。
しかし、大番頭《おおばんと》はどこにもいなかった。
困った…
どうすればいいのだ…
私は、ひどくコンワクした。
前回(1981年夏から1982年1月)の放浪《たび》で危機を脱することができたのは一通の電報であった。
送り主はだれかは分からないが、こう記されていた。
1ガツ25ニチゴゴ3ジマデニシモノセキのカンプフェリーノノリバヘムカエ…
私は、電文にしたがう形で下関国際ターミナルへ向かった。
1982年1月25日の午後2時半頃に下関国際ターミナルに到着した。
到着したあと、待合室でドナ姐《ねえ》はんとあった。
その後、夜7時発の関釜フェリーに乗って日本から出国した。
翌朝8時半頃にプサンの国際ターミナルに到着した。
午後1時頃に、私とドナ姐《ねえ》はんはデルタ航空のチャーター便に乗ってアメリカ合衆国へ向かった。
それで危機的な事態をまぬがれることができた…
しかし、今回は前回と違ってより過酷な状況におちいった。
最悪の事態が発生することも考えられる…
どうしよう…
どうすればいいのだ…
それからまた時は流れて…8月末頃であった。
(ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、ツクツクホーシ…)
この年(1994年)の夏は、より過酷な暑さにおそわれた。
この年の梅雨の時期は、雨が極力少なかった…
梅雨明け以降も晴れの日が続いた。
西日本〜東日本を中心に35度以上の猛暑日が続いたことが原因でダムの水が干上がるなどで深刻な水不足が生じた。
これで、何日目だ…
このまままとまった雨がふらなければ…
よりサイアクな事態が生じるかもしれない…
私は、そんな過酷な状況の中で大番頭《おおばんと》はんたちを探し続けた。
しかし…
大番頭《おおばんと》はんたちを見つけることができなかった。
時は、8月30日の昼前のことであった。
「はあ〜…しんどい…」
(ドサッ…)
場所はどこであったかよくおぼえていないが、私は脱水症状を起こす一歩手前におちいった。
木陰に設置されているベンチに座った私は、近くにあるローソン(コンビニ)で購入した500ミリリットル缶のペプシコーラのフタをあけてゴクゴクとのんだ。
8月末だと言うのに、この暑さは一体なんなのだ…
これはジンジョーではない!!
心身ともにふらついている私は、ベンチに寝転んだ。
この時であった。
私は、1970年の春ごろを思い出した…
あの時…
私は…
アメリカ海兵隊の基地で…
ブートキャンプの日々を送っていた…
時は、1970年3月31日の昼過ぎであった。
またところ変わって、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにある海兵隊の基地にて…
基地内にある運動場で新兵さんたちのブートキャンプが行われていた。
私は、新兵さんたちと一緒に腕立て伏せをしていた。
オニ教官の怒鳴り声が運動場に響いた。
「ナインティーンセブン、ナインティーンエイト、ナインティーンナイン、ハンドレッド!!…ほらあと100行くぞ!!…ワン!!ツー!!スリー!!」
きつい…
ホンマにどぎつい…
けど…
逃げることはできない…
私は、必死に歯を食いしばりながら腕立て伏せをしていた。
ブートキャンプ中、私はオニ教官から『アホ!!』『マヌケ!!』『コラ!!』『たわけ!!』『ナマクラ!!』『ドジ!!』…と言われまくった。
こんぼうでしりを激しくたたかれるなど…しわき回されたこともあった。
それでも、必死になってついて行った。
置いてけぼりになるものかとつぶやきながらどぎつい訓練にたえた…
でも…
陸上自衛隊少年工科学校《りくじのだんしこう》〜防衛大学校にいた時がより過酷だった。
あの時は、学生運動が行われていた時期だったので寮から一歩も外へ出るなと厳命された…
私は、勤勉ひとすじの激まじめ人間だったので外へ出なかった。
しかし、一部の生徒・学生は厳命をやぶって外へ出ていった…
私は、厳命をやぶって外へ出ていった生徒・学生たちをよりするどい目つきでにらみつけながらつぶやいた。
あの野郎!!
ふざけるなよ!!
勝手なことをするんじゃねえよ!!