乳房星(たらちねぼし)−1・0
【異邦人】
時は、4月1日の朝10時頃であった。
A班のメンバーたちが乗っている専用機がインド・デリーのインディラガンディー国際空港に到着した。
専用機を降りたメンバーたちは、特大バスに乗ってデリーの中心地へ向かった。
午後1時頃、特大バスがコノートプレイス付近ジャンパースレーンにあるザ・インペリアルニューデリー(五ツ星ホテル)に到着した。
宿泊の手続きを終えたメンバーたちは、各部屋に入って身体を休める。
時は、4月2日の朝9時頃であった。
ところ変わって、インド本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジーッ、パチパチ…)
私は、オフィスビル内にある個室でソロバンを使って帳簿に記載されている金額を計算して間違いがないかどうかをチェックしていた。
インド本社でお仕事をする予定は4月8日まで…
その後は、アーンドラ、プラデーシュ・チャッテ、イースガル・ハリヤーナ、オリッサの4州にある特大豪邸・特大倉庫のお手入れなどの予定が入っている。
時は、夕方4時半頃であった。
私は、帳簿の整理が一区切りついたので休憩をしていた。
窓には、夕暮れ時のデリーの中心部の風景が写っていた。
私は、デロンギのコーヒーメーカーの容器に入っているコーヒーを白の(スタバで買った)トールサイズのマグカップに注いだ。
(ピッ、カチャ…)
コーヒーをいれたあと、私はデスクの上に置いてるリモコンを手に取った。
リモコンを使って、ネットジューク(ソニーオーディオ)の電源をいれた。
(ピッ、ピッ…)
つづいて、ハードディスクモードにセットしたあとダウンロードされている曲を選んだ。
その後、一曲リピートにセットしたあと再生ボタンを押した。
一曲リピートにセットした歌は、久保田早紀さんの歌で『異邦人』である。
私は、夕暮れに染まるデリーの街並みをながめながらいろんなことを考えた。
人生設計のこと…
仕事のこと…
他にも…
いろんなことを考えた。
夕方5時50分頃であった。
私はネットジュークの電源を切ったあと、のみかけのコーヒーをのみほした。
(ジーッ、パチパチ…)
その後、私は帳簿の計算を再開した。
4月14日、インドでの予定を終えたA班のメンバーたちは専用機に乗って旅に出た。
専用機は、コルカタのスバス・チャンドラ・ボーズ国際空港を出発して、バンコク経由でインドネシアへ向かった。
4月15日午後3時頃であった。
A班のメンバーたちが乗っている専用機がジャカルタ・スカルノハッタ国際空港に到着した。
専用機を降りたメンバーたちは、空港ターミナル内にあるホテルへ向かった。
この日は、ホテルで身体を休める
4月16日と17日は、インドネシア本社でお仕事をする予定である。
4月16日朝9時半頃であった。
ところ変わって、スカルノハッタ国際空港から700メートル先にあるインドネシア本社のオフィスビルにて…
この日は、大手空調設備メーカーの人たちと一緒に感染防止対策に必要な空調設備の点検・修繕を1日かけて行った。
17日は、オフィスビルの窓ふき清掃をした。
18日から21日までの間、南スマトラ・西カリマンタン・中部ジャワ・パプアの各州へ外回りの仕事に出た。
4月23日は、シンガポール国際本社でひらかれる会議に出席した。
24日から26日の間、マレーシアのジョホール・ケダ・ペラの各州へ外回りの仕事に出た。
4月27日、インドネシア本社方面のお仕事を終えたA班のメンバーたちは、専用機に乗って再び旅に出た。
4月29日からは、カナダ方面でお仕事をする予定である。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
時は、4月29日のお昼ごろであった。
A班のメンバーたちは、カナディアン号(大陸横断特急)に乗って旅に出た。
4月30日は、ジャスパーで商談のお仕事の予定が入っている。
私たちは、移動中の列車の中で商談の資料を作るお仕事をしていた。
4月30日の朝6時頃であった。
私は、仕事の手を休めて車窓の風景をのんびりとながめていた。
窓の外からは、標高3954メートルのマウントロブソンが朝日に染まっている姿が見えた。
気がついたら、私は一晩中商談の資料を作るお仕事をしていた…
車窓の風景は、マウント・ロブソンからムース湖の風景に変わった。
バンクーバーからトロントまでの鉄道の営業キロは4446キロ…
世界では、シベリア鉄道に続いて2番目に長い営業キロ…
東京~博多間を新幹線で4往復分の営業キロであった。
所用日数は、バンクーバーからジャスパーまでが1泊2日で、バンクーバーからトロントまでが4泊5日である
ちなみに、シベリア鉄道でウラジオストクからモスクワまでの所用日数が7~8日と最も長い所用日数である。
カナディアン号は、それについで2番目に長い所用日数である。
4月30日の夕方4時頃に、列車がジャスパーの駅に到着した。
列車を降りたA班のメンバーたちは、駅の近くにあるホテルへ向かった。
ホテルに到着後、宿泊の手続きを取って、各自の部屋へ移った。
夕方6時頃、カルガリーからお越しになられた宝石商の主人と一緒にホテルのカフェテリアでお会いした。
ダイヤモンド鉱山の採掘権のリース契約の更新などの手続きを取ったあと、夕食を食べながら雑談をして過ごした。
5月1日の夕方5時頃であった。
A班のメンバーたちはジャスパーの駅からカナディアン号に乗って、トロントへ向った。
5月5日は、トロントにあるモデルさん会社と売り子さん会社の関連のお仕事に取り組む予定である。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
車窓に写る風景は、金色に染まっている麦畑の風景が辺り一面に広まっていた。
個室にいる私は、仕事の手を休めて、車窓の風景をゆっくりとながめながらエクスペリアのウォークマンのアプリで1970年から1987年までの青春歌謡の歌を聴いて過ごした。
それから30分後であった。
私は、トロントでのお仕事に使う資料を作るお仕事を再開した。
5月5日の朝9時半過ぎに、4446キロの大陸横断の旅の終着駅のトロント・ユニオン駅に列車が到着した。
列車から降りたA班のメンバーたちは、駅でB班のメインメンバーたちと合流したあと、お仕事に取り組んだ。
カナダ国内の予定のお仕事は、5月7日の朝9時半頃に終了した。
A班のメンバーたちは、カナダ国内での予定を終えたあと、トロント・ピアソーン国際空港から専用機が待機しているニューヨークJFK国際空港へ向かった。
A班のメンバーたちは、空港に到着したあとニュース専門チャンネルのテレビ局へ向かった。
夜9時から、全米で一斉に放映されるディベート番組に私が生出演する予定である。
A班のメンバーたちは、夜7時にテレビ局に到着した。
受付で手続きを済ませたあと、楽屋へ移動した。
楽屋に入った後、私はビッグマックとブレンドコーヒーで晩ごはんを食べながら、討論番組で使う資料に目を通した。
夜8時15分にスーツ合わせをして、8時半にスタジオ入り…
その後、番組開始10分前まで書面に目を通した。
生放送開始10分前に、番組に出演するみなさまがスタジオに入った。
私は、生出演するみなさまと名刺のやり取りをしてごあいさつを交わした。
開始5分前に、所定の席について司会者の女性キャスターがお越しになるのを待った。
番組に出演するメンバーは、お堅い人たちばかりである。
アメリカの経済界のリーダー・アメリカの上院議員・下院議員・カリフォルニア州知事・ペンダゴン(アメリカ国防総省)の報道官・アメリカ大統領補佐官・国務長官・ニュースタイムスの政治・軍事関連の記者・イギリスBBCテレビの記者…そして私・イワマツグループの総帥(総合オーナー)の合計30人である。
夜9時に、予定通りに生放送が始まった。
女性キャスターのごあいさつと出演するメンバーたちの紹介を経てディベートに入った。
ディベート開始直後から、私以外のメンバーたち29人が激しい英語のやり取りで繰り広げた。
私は、どこで入ればいいのか分からずに困惑した。
ディベート番組が終了したあと、A班のメンバーたちはテレビ局からダブルデッカーのバスに乗ってJFK国際空港へ再び向かった。
空港に到着した後、A班のメンバーたちは専用機に乗り込んだ。
(ゴーッ…)
専用機は、経由地のニースの国際空港へ向けて飛行した。
5月8日の午前10時頃であった。
専用機がニースの国際空港に到着した。
それから80分後に、貸し切りの小型機に乗り換えてロンドンのルトン空港へ向かった。
ルトン空港に到着した後、A班のメンバーたちは乗り継ぎ専用のロビーで休憩を取った。
それから120分後にA班のメンバーたちは乗り継ぎの小型機に乗って、エディンバラの国際空港へ向かった。
5月13日からは、スコットランドでお仕事に取り組む予定である。
5月13日の朝10時過ぎであった
ところ変わって、エディンバラのニュータウン・クイーンズストリートにある関連会社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のつけ間違いの有無を確認した。
夕方5時過ぎであった。
クイーンズストリートガーデンズの敷地にある水銀灯にポツポツと灯りが灯り出した。
それと同時に、通りの飲食店の灯りがポツポツと灯った。
通りを歩いている若いカップルさんたちや女の子同士のグループたちが、お目当てのお店へと向かっていた。
私は、バリスタで挽いたコーヒーをのみながら休憩をしていた。
明日は、外回りのお仕事がたくさんある。
休憩を終えたあと、私は明日の準備を始めた。
5月14日から18日までの間は、グラスコー~アバディーン~ウィック~インヴァネスと外回り営業のお仕事に出た。
5月18日の夕方に、スコットランドでのお仕事の予定が終了した。
A班のメンバーたちは、その日のうちに専用機に乗ってカザフスタンへ向かった。
5月21日からは、カザフスタン本社でお仕事に取り組む予定である。
ところ変わって、アスタナ中心部のミラソヤン通りにあるカザフスタン本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをした。
午後3時過ぎであった。
私は、仕事が一息ついたのでアスタナのシンボルタワー・バイテレクへ行った。
バイテレクは、1997年にアスタナがカザフスタンの新しい首都になった記念に完成した地上105メートルのシンボルタワーである。
タワーの形は、東京スカイツリーとよくにていた。
展望台にいる私は、碁盤目状の中心部の風景を見つめた。
街の中心部にイシム川が流れていた…
中央公園が整備されている近代都市アスタナは、札幌や京都の都市《まち》の風景とよく似ていた。
私は、アスタナの中心部の風景をながめながらいろんなことを考えた。
5月22日から28日までの間は、アクトへ~アティウラ~ベイネク~クズルオルダ~トルキスタン~アクトガイと外回り営業に出た。
5月28日に、カザフスタン本社の予定が終わった。
A班のメンバーたちは、専用機に乗ってモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港へ向かった。
アスタナを出発してから30分後に、専用機はセメイ(セミパラチンスク)の上空を飛行していた。
そこは、旧ソ連時代に使用された核兵器の実験場であった。
専用機の窓からおぞましい風景を見た私は、1986年に発生したあの恐ろしい原発事故が発生した時のことを思い出した。
かつて、原発需要《げんぱつ》でにぎわった都市《プリピャチ》は、今は森林と化していた。
あの悲惨な原発事故を思い出すたびに、胸がひどく痛む…
5月29日の午後3時過ぎに、A班のメンバーたちが乗っている専用機がモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港に到着した。
A班のメンバーたちは、専用機を降りたあと空港からダブルデッカーのバスに乗って、モンゴル本社へ向かった。
5月30日からは、モンゴル本社でお仕事に取り組む予定である。
ところ変わって、モンゴル本社のオフィスビルの私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをした。
夕方5時半過ぎに、窓の外に写っているチンギスハーン広場に建っているチンギスハーン像がライトアップされた。
それと同時に、建物に灯りがポツポツと灯り始めた。
私は、個室の窓に写るウランバートルの中心部の風景をながめながらバリスタで挽いたコーヒーをのんでいた。
5月31日から6月9日までの間は、ウブルハンガイ県~ドンドゴビ県~ゴビスンベル県~ヘンティ県~ハヤンホンゴル県~ゴビアルタイ県の各地を回って外回り営業のお仕事に出た。
10日は、休暇を取ってみんなで西モンゴルのハラホリンへ行った。
ところ変わって、世界遺産に登録されているエルデニ・ソー寺院にて…
私たちは、ゆっくりとした足取りで寺院の境内を散策した。
私は、灰色の曇におおわれた空を見上げながらつぶやいた。
恋人の温もりがほしい…
だけど…
スケジュールが立て込んでいるけん…
休みがない…
どうしようかな…
6月11日であった。
A班のメンバーたちは、ウランバートルチンギスハーン国際空港から専用機に乗ってサンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港へ向かった。
サンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港には12日の朝6時半過ぎに到着した。
A班のメンバーたちは、専用機を降りたあと空港からダブルデッカーのバスに乗ってサンクトペテルブルクの中央駅へ向かった。
このあと、サンクトペテルブルクの中央駅から国際列車に乗って、ヘルシンキへ向かう予定である。
サンクトペテルブルクの中央駅に到着した後、A班のメンバーたちはすぐに国際列車に乗り込んだ。
午前10時半過ぎであった。
A班のメンバーたちが乗り込んだ国際列車がサンクトペテルブルクの中央駅を出発してヘルシンキへ向けて走り出した。
深夜11時半過ぎに、国際列車はヘルシンキの中央駅に到着した。
列車を降りたあと、ヘルシンキの中央駅からダブルデッカーのバスに乗って港へ向かった。
港に到着した後、ホバークラフトに乗り換えてストックホルムへ向かう予定である。
6月15日からは、北欧本社でお仕事に取り組む予定である。
6月15日のことであった。
ところ変わって、ストックホルム中央駅の近くにある北欧本社のオフィスビルの中にある個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックに取り組んでいた。
16日は、休暇を取った。
メンバーたちは、ガムラ・スタン(ストックホルム発祥の地)へ行って、街並み散策をした。
リッダーホルム教会~大聖堂~ドイツ教会~モーデントローツィグ・グレン通り~ヴェステルロングガータン通り~大広場とめぐる観光コースをゆっくりとした足取りでめぐった。
午後3時頃、大広場の近くにあるカフェテリアに行って、コーヒーをのんで過ごした。
17日から30日の間は、スウェーデン・フィンランド・ノルウェー・デンマークの各地へ行って、外回り営業のお仕事に出た。
7月1日からはアイルランド国内でお仕事に取り組んだ。
ところ変わって、首都ダブリンの中心部・テンプルバーのグレートストランドストリートにある関連会社のオフィスビルにて…
私は、専用の個室でお仕事に取り組んでいた。
(ジーッ…パチパチパチパチ…パチパチパチパチ…パチパチパチパチ…)
私は、そろばんを使って記載されている帳簿に間違いがないかどうかを調べていた。
2日からの予定は、ティペテリー県・ウォーターフォード県・リムリック県・オファリー県・キルデア県・カーロウ県の各地で外回りの営業である。
最終日の7月24日は、キャヴァン県内にある取引先の会社へ行って、鉱山の採掘権の契約の更新の手続きなどの商談をした。
7月25日正午にスケジュール帳通りの予定が終了した。
A班のメンバーたちが乗っている専用機がインド・デリーのインディラガンディー国際空港に到着した。
専用機を降りたメンバーたちは、特大バスに乗ってデリーの中心地へ向かった。
午後1時頃、特大バスがコノートプレイス付近ジャンパースレーンにあるザ・インペリアルニューデリー(五ツ星ホテル)に到着した。
宿泊の手続きを終えたメンバーたちは、各部屋に入って身体を休める。
時は、4月2日の朝9時頃であった。
ところ変わって、インド本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジーッ、パチパチ…)
私は、オフィスビル内にある個室でソロバンを使って帳簿に記載されている金額を計算して間違いがないかどうかをチェックしていた。
インド本社でお仕事をする予定は4月8日まで…
その後は、アーンドラ、プラデーシュ・チャッテ、イースガル・ハリヤーナ、オリッサの4州にある特大豪邸・特大倉庫のお手入れなどの予定が入っている。
時は、夕方4時半頃であった。
私は、帳簿の整理が一区切りついたので休憩をしていた。
窓には、夕暮れ時のデリーの中心部の風景が写っていた。
私は、デロンギのコーヒーメーカーの容器に入っているコーヒーを白の(スタバで買った)トールサイズのマグカップに注いだ。
(ピッ、カチャ…)
コーヒーをいれたあと、私はデスクの上に置いてるリモコンを手に取った。
リモコンを使って、ネットジューク(ソニーオーディオ)の電源をいれた。
(ピッ、ピッ…)
つづいて、ハードディスクモードにセットしたあとダウンロードされている曲を選んだ。
その後、一曲リピートにセットしたあと再生ボタンを押した。
一曲リピートにセットした歌は、久保田早紀さんの歌で『異邦人』である。
私は、夕暮れに染まるデリーの街並みをながめながらいろんなことを考えた。
人生設計のこと…
仕事のこと…
他にも…
いろんなことを考えた。
夕方5時50分頃であった。
私はネットジュークの電源を切ったあと、のみかけのコーヒーをのみほした。
(ジーッ、パチパチ…)
その後、私は帳簿の計算を再開した。
4月14日、インドでの予定を終えたA班のメンバーたちは専用機に乗って旅に出た。
専用機は、コルカタのスバス・チャンドラ・ボーズ国際空港を出発して、バンコク経由でインドネシアへ向かった。
4月15日午後3時頃であった。
A班のメンバーたちが乗っている専用機がジャカルタ・スカルノハッタ国際空港に到着した。
専用機を降りたメンバーたちは、空港ターミナル内にあるホテルへ向かった。
この日は、ホテルで身体を休める
4月16日と17日は、インドネシア本社でお仕事をする予定である。
4月16日朝9時半頃であった。
ところ変わって、スカルノハッタ国際空港から700メートル先にあるインドネシア本社のオフィスビルにて…
この日は、大手空調設備メーカーの人たちと一緒に感染防止対策に必要な空調設備の点検・修繕を1日かけて行った。
17日は、オフィスビルの窓ふき清掃をした。
18日から21日までの間、南スマトラ・西カリマンタン・中部ジャワ・パプアの各州へ外回りの仕事に出た。
4月23日は、シンガポール国際本社でひらかれる会議に出席した。
24日から26日の間、マレーシアのジョホール・ケダ・ペラの各州へ外回りの仕事に出た。
4月27日、インドネシア本社方面のお仕事を終えたA班のメンバーたちは、専用機に乗って再び旅に出た。
4月29日からは、カナダ方面でお仕事をする予定である。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
時は、4月29日のお昼ごろであった。
A班のメンバーたちは、カナディアン号(大陸横断特急)に乗って旅に出た。
4月30日は、ジャスパーで商談のお仕事の予定が入っている。
私たちは、移動中の列車の中で商談の資料を作るお仕事をしていた。
4月30日の朝6時頃であった。
私は、仕事の手を休めて車窓の風景をのんびりとながめていた。
窓の外からは、標高3954メートルのマウントロブソンが朝日に染まっている姿が見えた。
気がついたら、私は一晩中商談の資料を作るお仕事をしていた…
車窓の風景は、マウント・ロブソンからムース湖の風景に変わった。
バンクーバーからトロントまでの鉄道の営業キロは4446キロ…
世界では、シベリア鉄道に続いて2番目に長い営業キロ…
東京~博多間を新幹線で4往復分の営業キロであった。
所用日数は、バンクーバーからジャスパーまでが1泊2日で、バンクーバーからトロントまでが4泊5日である
ちなみに、シベリア鉄道でウラジオストクからモスクワまでの所用日数が7~8日と最も長い所用日数である。
カナディアン号は、それについで2番目に長い所用日数である。
4月30日の夕方4時頃に、列車がジャスパーの駅に到着した。
列車を降りたA班のメンバーたちは、駅の近くにあるホテルへ向かった。
ホテルに到着後、宿泊の手続きを取って、各自の部屋へ移った。
夕方6時頃、カルガリーからお越しになられた宝石商の主人と一緒にホテルのカフェテリアでお会いした。
ダイヤモンド鉱山の採掘権のリース契約の更新などの手続きを取ったあと、夕食を食べながら雑談をして過ごした。
5月1日の夕方5時頃であった。
A班のメンバーたちはジャスパーの駅からカナディアン号に乗って、トロントへ向った。
5月5日は、トロントにあるモデルさん会社と売り子さん会社の関連のお仕事に取り組む予定である。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
車窓に写る風景は、金色に染まっている麦畑の風景が辺り一面に広まっていた。
個室にいる私は、仕事の手を休めて、車窓の風景をゆっくりとながめながらエクスペリアのウォークマンのアプリで1970年から1987年までの青春歌謡の歌を聴いて過ごした。
それから30分後であった。
私は、トロントでのお仕事に使う資料を作るお仕事を再開した。
5月5日の朝9時半過ぎに、4446キロの大陸横断の旅の終着駅のトロント・ユニオン駅に列車が到着した。
列車から降りたA班のメンバーたちは、駅でB班のメインメンバーたちと合流したあと、お仕事に取り組んだ。
カナダ国内の予定のお仕事は、5月7日の朝9時半頃に終了した。
A班のメンバーたちは、カナダ国内での予定を終えたあと、トロント・ピアソーン国際空港から専用機が待機しているニューヨークJFK国際空港へ向かった。
A班のメンバーたちは、空港に到着したあとニュース専門チャンネルのテレビ局へ向かった。
夜9時から、全米で一斉に放映されるディベート番組に私が生出演する予定である。
A班のメンバーたちは、夜7時にテレビ局に到着した。
受付で手続きを済ませたあと、楽屋へ移動した。
楽屋に入った後、私はビッグマックとブレンドコーヒーで晩ごはんを食べながら、討論番組で使う資料に目を通した。
夜8時15分にスーツ合わせをして、8時半にスタジオ入り…
その後、番組開始10分前まで書面に目を通した。
生放送開始10分前に、番組に出演するみなさまがスタジオに入った。
私は、生出演するみなさまと名刺のやり取りをしてごあいさつを交わした。
開始5分前に、所定の席について司会者の女性キャスターがお越しになるのを待った。
番組に出演するメンバーは、お堅い人たちばかりである。
アメリカの経済界のリーダー・アメリカの上院議員・下院議員・カリフォルニア州知事・ペンダゴン(アメリカ国防総省)の報道官・アメリカ大統領補佐官・国務長官・ニュースタイムスの政治・軍事関連の記者・イギリスBBCテレビの記者…そして私・イワマツグループの総帥(総合オーナー)の合計30人である。
夜9時に、予定通りに生放送が始まった。
女性キャスターのごあいさつと出演するメンバーたちの紹介を経てディベートに入った。
ディベート開始直後から、私以外のメンバーたち29人が激しい英語のやり取りで繰り広げた。
私は、どこで入ればいいのか分からずに困惑した。
ディベート番組が終了したあと、A班のメンバーたちはテレビ局からダブルデッカーのバスに乗ってJFK国際空港へ再び向かった。
空港に到着した後、A班のメンバーたちは専用機に乗り込んだ。
(ゴーッ…)
専用機は、経由地のニースの国際空港へ向けて飛行した。
5月8日の午前10時頃であった。
専用機がニースの国際空港に到着した。
それから80分後に、貸し切りの小型機に乗り換えてロンドンのルトン空港へ向かった。
ルトン空港に到着した後、A班のメンバーたちは乗り継ぎ専用のロビーで休憩を取った。
それから120分後にA班のメンバーたちは乗り継ぎの小型機に乗って、エディンバラの国際空港へ向かった。
5月13日からは、スコットランドでお仕事に取り組む予定である。
5月13日の朝10時過ぎであった
ところ変わって、エディンバラのニュータウン・クイーンズストリートにある関連会社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のつけ間違いの有無を確認した。
夕方5時過ぎであった。
クイーンズストリートガーデンズの敷地にある水銀灯にポツポツと灯りが灯り出した。
それと同時に、通りの飲食店の灯りがポツポツと灯った。
通りを歩いている若いカップルさんたちや女の子同士のグループたちが、お目当てのお店へと向かっていた。
私は、バリスタで挽いたコーヒーをのみながら休憩をしていた。
明日は、外回りのお仕事がたくさんある。
休憩を終えたあと、私は明日の準備を始めた。
5月14日から18日までの間は、グラスコー~アバディーン~ウィック~インヴァネスと外回り営業のお仕事に出た。
5月18日の夕方に、スコットランドでのお仕事の予定が終了した。
A班のメンバーたちは、その日のうちに専用機に乗ってカザフスタンへ向かった。
5月21日からは、カザフスタン本社でお仕事に取り組む予定である。
ところ変わって、アスタナ中心部のミラソヤン通りにあるカザフスタン本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをした。
午後3時過ぎであった。
私は、仕事が一息ついたのでアスタナのシンボルタワー・バイテレクへ行った。
バイテレクは、1997年にアスタナがカザフスタンの新しい首都になった記念に完成した地上105メートルのシンボルタワーである。
タワーの形は、東京スカイツリーとよくにていた。
展望台にいる私は、碁盤目状の中心部の風景を見つめた。
街の中心部にイシム川が流れていた…
中央公園が整備されている近代都市アスタナは、札幌や京都の都市《まち》の風景とよく似ていた。
私は、アスタナの中心部の風景をながめながらいろんなことを考えた。
5月22日から28日までの間は、アクトへ~アティウラ~ベイネク~クズルオルダ~トルキスタン~アクトガイと外回り営業に出た。
5月28日に、カザフスタン本社の予定が終わった。
A班のメンバーたちは、専用機に乗ってモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港へ向かった。
アスタナを出発してから30分後に、専用機はセメイ(セミパラチンスク)の上空を飛行していた。
そこは、旧ソ連時代に使用された核兵器の実験場であった。
専用機の窓からおぞましい風景を見た私は、1986年に発生したあの恐ろしい原発事故が発生した時のことを思い出した。
かつて、原発需要《げんぱつ》でにぎわった都市《プリピャチ》は、今は森林と化していた。
あの悲惨な原発事故を思い出すたびに、胸がひどく痛む…
5月29日の午後3時過ぎに、A班のメンバーたちが乗っている専用機がモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港に到着した。
A班のメンバーたちは、専用機を降りたあと空港からダブルデッカーのバスに乗って、モンゴル本社へ向かった。
5月30日からは、モンゴル本社でお仕事に取り組む予定である。
ところ変わって、モンゴル本社のオフィスビルの私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをした。
夕方5時半過ぎに、窓の外に写っているチンギスハーン広場に建っているチンギスハーン像がライトアップされた。
それと同時に、建物に灯りがポツポツと灯り始めた。
私は、個室の窓に写るウランバートルの中心部の風景をながめながらバリスタで挽いたコーヒーをのんでいた。
5月31日から6月9日までの間は、ウブルハンガイ県~ドンドゴビ県~ゴビスンベル県~ヘンティ県~ハヤンホンゴル県~ゴビアルタイ県の各地を回って外回り営業のお仕事に出た。
10日は、休暇を取ってみんなで西モンゴルのハラホリンへ行った。
ところ変わって、世界遺産に登録されているエルデニ・ソー寺院にて…
私たちは、ゆっくりとした足取りで寺院の境内を散策した。
私は、灰色の曇におおわれた空を見上げながらつぶやいた。
恋人の温もりがほしい…
だけど…
スケジュールが立て込んでいるけん…
休みがない…
どうしようかな…
6月11日であった。
A班のメンバーたちは、ウランバートルチンギスハーン国際空港から専用機に乗ってサンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港へ向かった。
サンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港には12日の朝6時半過ぎに到着した。
A班のメンバーたちは、専用機を降りたあと空港からダブルデッカーのバスに乗ってサンクトペテルブルクの中央駅へ向かった。
このあと、サンクトペテルブルクの中央駅から国際列車に乗って、ヘルシンキへ向かう予定である。
サンクトペテルブルクの中央駅に到着した後、A班のメンバーたちはすぐに国際列車に乗り込んだ。
午前10時半過ぎであった。
A班のメンバーたちが乗り込んだ国際列車がサンクトペテルブルクの中央駅を出発してヘルシンキへ向けて走り出した。
深夜11時半過ぎに、国際列車はヘルシンキの中央駅に到着した。
列車を降りたあと、ヘルシンキの中央駅からダブルデッカーのバスに乗って港へ向かった。
港に到着した後、ホバークラフトに乗り換えてストックホルムへ向かう予定である。
6月15日からは、北欧本社でお仕事に取り組む予定である。
6月15日のことであった。
ところ変わって、ストックホルム中央駅の近くにある北欧本社のオフィスビルの中にある個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックに取り組んでいた。
16日は、休暇を取った。
メンバーたちは、ガムラ・スタン(ストックホルム発祥の地)へ行って、街並み散策をした。
リッダーホルム教会~大聖堂~ドイツ教会~モーデントローツィグ・グレン通り~ヴェステルロングガータン通り~大広場とめぐる観光コースをゆっくりとした足取りでめぐった。
午後3時頃、大広場の近くにあるカフェテリアに行って、コーヒーをのんで過ごした。
17日から30日の間は、スウェーデン・フィンランド・ノルウェー・デンマークの各地へ行って、外回り営業のお仕事に出た。
7月1日からはアイルランド国内でお仕事に取り組んだ。
ところ変わって、首都ダブリンの中心部・テンプルバーのグレートストランドストリートにある関連会社のオフィスビルにて…
私は、専用の個室でお仕事に取り組んでいた。
(ジーッ…パチパチパチパチ…パチパチパチパチ…パチパチパチパチ…)
私は、そろばんを使って記載されている帳簿に間違いがないかどうかを調べていた。
2日からの予定は、ティペテリー県・ウォーターフォード県・リムリック県・オファリー県・キルデア県・カーロウ県の各地で外回りの営業である。
最終日の7月24日は、キャヴァン県内にある取引先の会社へ行って、鉱山の採掘権の契約の更新の手続きなどの商談をした。
7月25日正午にスケジュール帳通りの予定が終了した。