破滅を控えた悪役令嬢が無理してヒロインを演じた結果~怠惰な余生が憧れなのに、第二王子の溺愛ルートに困惑中~
■プロローグ
――ごん。
朝食を終え、テラスに場所を移して紅茶でも飲もうかしらと思っていたら、側頭部にとんでもない衝撃が走った。
その瞬間に流れ込んできたのは前世の記憶。
そうだ。わたしはSEだった。
クライアントからの無茶振りで三徹をかまし、それでも終わりが見えない仕事に絶望し、せめて業務に戻る前に頭をすっきりさせようとふらふら足を踏み入れた非常階段。
もういろいろ限界だったわたしは、頬を撫でるふわりとした春の風をお布団だと思った。いやほんとに。
そのままお布団(幻想)に向かい豪快にダイブ。
当然お布団なんてそこにはなくて、わたしは非常階段から転がり落ちた。そこで、わたしは二十五年の短い生涯を終えたのだった。
次はお布団でぐっすり寝て過ごしたいな。もともと怠惰で寝るのが大好きなわたしに激務のSEなんて荷が重すぎたのだ。
わたしにしてはもう一生分働いた気がするし、もし次の人生があるのならお金はなくてもいいから一日寝て暮らしたい。
お料理をするのも面倒だし、庭にそのまま食べられるきゅうりでも植えよう。毎日きゅうり食べて寝てきゅうり食べて寝てきゅうり食べて寝てきゅうり。
――きゅうりで頭がいっぱいになったわたしは気を失った。
気絶したのは、たぶんきゅうりのせいじゃない。わたしの側頭部に衝撃を走らせた、何かのせいだった。
――ぐすん。ぐすん。ひっく、ぐすん。
誰かが泣いている、この泣き声は誰?
ぱちり。
目を覚ましたわたしの枕元で泣いていたのは、メイドのアルマだった。くるくるの赤みがかった髪をふたつのお団子にし、目を腫らして泣いている。
ここは何。わたしは誰。
ううん、わたしは確かにこのメイド、アルマを知っているし、ここはわたしの家――アルドリッジ侯爵家で、わたしの名前はこの家の令嬢セラフィーナ・アルドリッジだ。
でも全然しっくりこない。わたしがわたしで、わたしじゃないみたいな感覚。っていうか頭が痛い!
ズキズキする側頭部を押さえたわたしは、そのまま視線をアルマ以外のところに移す。
大きな天蓋付きのベッド(フリフリで愛らしいデザインなのになぜか毒々しいカラーコーディネートがすごい)、お姫様が使うみたいな丸テーブルに装飾付きチェアのダイニングセット、漆黒と濃い紫のベルベッド生地で作られた大きなソファ、金ピカの窓枠。何これものすごく悪趣味! そして部屋がものすごく広い。
黒いフリルと赤いレースと紫のくまのぬいぐるみだらけのカオスなベッドから起き上がり、周囲を見回すわたしの仕草に、泣いていたアルマはやっと主が目を覚ましたのだと気がついたらしい。
「ひぃっ!」
アルマは声を裏返らせて尻もちをつくと、そこから素早い仕草で土下座の姿勢をとり、額を床に擦りつけた。
「お、お、お、お嬢様。この度は申し訳ございませんでした! わたしがうっかり手を滑らせて水差しをお嬢様の頭にぶつけてしまい」
いやそんなことある? って突っ込みたかったけれど、アルマはめり込んでしまいそうなぐらいおでこをぴったり床にくっつけ、ブルブルと震えている。
これは突っ込みとか笑いとか全然期待していない、間違いなく本気の謝罪だった。
「別にそんなに謝らなくても」
「ひぃっ!」
ただ、謝罪の仕方が大袈裟だしそこまで心配しなくても大丈夫ですよって言いたかっただけなのに、アルマはわたしが口を動かしただけでさらなる恐怖を感じたらしかった。
「あの……」
「ひぃっ!」
手を伸ばすと、その気配にすら怯えたのか、アルマの震えはいよいよ激しくなってしまった。ブルブルブルブル、この震え方では部屋の方まで揺れる可能性がある。
とにかくこの震えからわかるのは、アルマはわたしの怪我を心配していたのではなくて、わたしの怒りの方を心配して泣いていたらしいということ。
こんなに怖がられるつもりはなかったわたしは、ぐるぐるする意識を何とか落ち着かせ、ゆっくりと瞬きながら自分のことをもう一度よく考えてみた。
わたしはセラフィーナ・アルドリッジ。アルドリッジ侯爵家の娘で、十三歳で、婚約者は王太子のフランシス殿下。……って……?
セラフィーナという名前も、王太子のフランシスという名前もどちらも知っている。
もちろん、自分と婚約者の名前を知っているのは当たり前のことなのだけれど、この感覚はもっと違うものだと思う。
また頭痛がして瞼を閉じたその瞬間、暗い視界にキラリと何かが光ってカラフルな画面が現れた。
――真ん中にサラサラピンク髪の守ってあげたい系華奢ヒロインと、多種多様な攻略対象たち。王子キャラからワンコ系、眼鏡のヤンデレまで完璧なラインナップ。キラキラのエフェクトを撒き散らして始まる、オープニングムービー。
ひえっ。
爽やかな音楽まで流れた気がして、わたしは慌てて目を開けた。
「ここって乙女ゲーム『光の乙女は愛される』の世界にそっくりじゃない……!?」
そうだ。ここは、わたしが前世で死ぬ前に激務の合間を縫ってプレイしていた乙女ゲーム『ヒカアイ』の世界そっくりなんだ……!
そして、さっき瞼の裏を駆け巡ったオープニングムービーを思い出す。
王子キャラはわたしの婚約者・フランシス。
ううん、そっくりなんじゃない。
これはもう確定だと思う。
わたしはまさかの乙女ゲーム転生を果たしてしまったらしい。
状況を把握したわたしを待っていたのは、さらに厳しすぎる現実だった。
さっきからずっとおでこを床につけたままのアルマはいまだにずっとブルブル震え続けている。
「セラフィーナお嬢様、どうかお許しください。私はどうなっても構いません。ですが、私の家には病気がちな両親と寝たきりの祖父、幼い弟妹がいます。どうか、家の没落は……いえ、家族の命だけはお助けください。どうかご慈悲を、セラフィーナお嬢様……!」
「!?」
たったこれだけで大人のメイドがまだ十三歳の女子に命乞いってどういうことですか。
いや貴族社会とかそういう事情はあるかもしれないけど、にしても殺すはずないよね? 一族郎党皆殺しとかありえないよね? 残虐非道な悪役令嬢でもあるまいし……。
そこまで考えたところで、わたしの背筋にぞくりとした感覚が走った。
ん? 残虐非道な悪役令嬢? 趣味が悪すぎるインテリア? メイドのアルマ? ――侯爵令嬢のセラフィーナ・アルドリッジ?
まさか。まさかまさかまさか!
めり込み土下座スタイルを崩さないアルマをそのままにしておいて、痛む頭を押さえつつよろよろとドレッサーまで移動し、鏡に自分の姿を映したわたしは絶望した。
きゅるっきゅる、ウエーブがキツすぎるブロンドヘアに、宝石のようにギラギラ輝くピンクの瞳。
ただでさえ派手な印象の顔立ちを意地悪そうにみせているのは吊り上がった大きな目と鋭角な角度を描く眉毛だ。
まだ十三歳だというのに、あどけなさなど存在しない。
正真正銘の、悪女顔だ。
「知ってる、この顔。――悪役令嬢、セラフィーナ・アルドリッジだ……」
乙女ゲーム『光の乙女は愛される』では主人公を引き立てるための悪役令嬢が存在した。
純粋で無垢で天真爛漫、誰にでも愛されるかわいらしい男爵令嬢という設定の主人公に対し、侯爵令嬢で意地悪顔のセラフィーナはその主人公を卑劣な方法で徹底的にいじめ尽くす。
主人公目線でゲームを楽しむプレイヤーから見ても、悪役令嬢のセラフィーナは攻略対象たちに主人公を守らせるイベントを起こすためだけに存在する悪魔。残念でかわいそうなキャラだった。
わたしがそのセラフィーナなの……!?
ていうか、ねえ『ヒカアイ』制作者の皆さま。
残虐非道な悪役令嬢なんて、本当に存在していいんですかね。
信じられなかったけど、鏡越しに見える土下座スタイルのままのアルマを見てわたしは実感した。
アルマは、ただわたしの頭に水差しをぶつけたぐらいで本気で一族郎党殺されると思っている。
いや確かに側頭部を水差しで強打ってなかなかひどいけど! でもこれは現実だ。
絶望して気が遠くなりかけたわたしは、あらためて鏡を見た。
「とりあえず、この鋭利な眉毛を下がり眉にしよう……」
こういうのは見た目が大事だ。
その後はもう一眠りしてから考えよう。
こういうときは、寝るに限る。
前世の記憶を取り戻したわたしが一番欲しているのは、お布団のように気持ちがいい春のそよ風ではなく、本物のお布団なのだから。
朝食を終え、テラスに場所を移して紅茶でも飲もうかしらと思っていたら、側頭部にとんでもない衝撃が走った。
その瞬間に流れ込んできたのは前世の記憶。
そうだ。わたしはSEだった。
クライアントからの無茶振りで三徹をかまし、それでも終わりが見えない仕事に絶望し、せめて業務に戻る前に頭をすっきりさせようとふらふら足を踏み入れた非常階段。
もういろいろ限界だったわたしは、頬を撫でるふわりとした春の風をお布団だと思った。いやほんとに。
そのままお布団(幻想)に向かい豪快にダイブ。
当然お布団なんてそこにはなくて、わたしは非常階段から転がり落ちた。そこで、わたしは二十五年の短い生涯を終えたのだった。
次はお布団でぐっすり寝て過ごしたいな。もともと怠惰で寝るのが大好きなわたしに激務のSEなんて荷が重すぎたのだ。
わたしにしてはもう一生分働いた気がするし、もし次の人生があるのならお金はなくてもいいから一日寝て暮らしたい。
お料理をするのも面倒だし、庭にそのまま食べられるきゅうりでも植えよう。毎日きゅうり食べて寝てきゅうり食べて寝てきゅうり食べて寝てきゅうり。
――きゅうりで頭がいっぱいになったわたしは気を失った。
気絶したのは、たぶんきゅうりのせいじゃない。わたしの側頭部に衝撃を走らせた、何かのせいだった。
――ぐすん。ぐすん。ひっく、ぐすん。
誰かが泣いている、この泣き声は誰?
ぱちり。
目を覚ましたわたしの枕元で泣いていたのは、メイドのアルマだった。くるくるの赤みがかった髪をふたつのお団子にし、目を腫らして泣いている。
ここは何。わたしは誰。
ううん、わたしは確かにこのメイド、アルマを知っているし、ここはわたしの家――アルドリッジ侯爵家で、わたしの名前はこの家の令嬢セラフィーナ・アルドリッジだ。
でも全然しっくりこない。わたしがわたしで、わたしじゃないみたいな感覚。っていうか頭が痛い!
ズキズキする側頭部を押さえたわたしは、そのまま視線をアルマ以外のところに移す。
大きな天蓋付きのベッド(フリフリで愛らしいデザインなのになぜか毒々しいカラーコーディネートがすごい)、お姫様が使うみたいな丸テーブルに装飾付きチェアのダイニングセット、漆黒と濃い紫のベルベッド生地で作られた大きなソファ、金ピカの窓枠。何これものすごく悪趣味! そして部屋がものすごく広い。
黒いフリルと赤いレースと紫のくまのぬいぐるみだらけのカオスなベッドから起き上がり、周囲を見回すわたしの仕草に、泣いていたアルマはやっと主が目を覚ましたのだと気がついたらしい。
「ひぃっ!」
アルマは声を裏返らせて尻もちをつくと、そこから素早い仕草で土下座の姿勢をとり、額を床に擦りつけた。
「お、お、お、お嬢様。この度は申し訳ございませんでした! わたしがうっかり手を滑らせて水差しをお嬢様の頭にぶつけてしまい」
いやそんなことある? って突っ込みたかったけれど、アルマはめり込んでしまいそうなぐらいおでこをぴったり床にくっつけ、ブルブルと震えている。
これは突っ込みとか笑いとか全然期待していない、間違いなく本気の謝罪だった。
「別にそんなに謝らなくても」
「ひぃっ!」
ただ、謝罪の仕方が大袈裟だしそこまで心配しなくても大丈夫ですよって言いたかっただけなのに、アルマはわたしが口を動かしただけでさらなる恐怖を感じたらしかった。
「あの……」
「ひぃっ!」
手を伸ばすと、その気配にすら怯えたのか、アルマの震えはいよいよ激しくなってしまった。ブルブルブルブル、この震え方では部屋の方まで揺れる可能性がある。
とにかくこの震えからわかるのは、アルマはわたしの怪我を心配していたのではなくて、わたしの怒りの方を心配して泣いていたらしいということ。
こんなに怖がられるつもりはなかったわたしは、ぐるぐるする意識を何とか落ち着かせ、ゆっくりと瞬きながら自分のことをもう一度よく考えてみた。
わたしはセラフィーナ・アルドリッジ。アルドリッジ侯爵家の娘で、十三歳で、婚約者は王太子のフランシス殿下。……って……?
セラフィーナという名前も、王太子のフランシスという名前もどちらも知っている。
もちろん、自分と婚約者の名前を知っているのは当たり前のことなのだけれど、この感覚はもっと違うものだと思う。
また頭痛がして瞼を閉じたその瞬間、暗い視界にキラリと何かが光ってカラフルな画面が現れた。
――真ん中にサラサラピンク髪の守ってあげたい系華奢ヒロインと、多種多様な攻略対象たち。王子キャラからワンコ系、眼鏡のヤンデレまで完璧なラインナップ。キラキラのエフェクトを撒き散らして始まる、オープニングムービー。
ひえっ。
爽やかな音楽まで流れた気がして、わたしは慌てて目を開けた。
「ここって乙女ゲーム『光の乙女は愛される』の世界にそっくりじゃない……!?」
そうだ。ここは、わたしが前世で死ぬ前に激務の合間を縫ってプレイしていた乙女ゲーム『ヒカアイ』の世界そっくりなんだ……!
そして、さっき瞼の裏を駆け巡ったオープニングムービーを思い出す。
王子キャラはわたしの婚約者・フランシス。
ううん、そっくりなんじゃない。
これはもう確定だと思う。
わたしはまさかの乙女ゲーム転生を果たしてしまったらしい。
状況を把握したわたしを待っていたのは、さらに厳しすぎる現実だった。
さっきからずっとおでこを床につけたままのアルマはいまだにずっとブルブル震え続けている。
「セラフィーナお嬢様、どうかお許しください。私はどうなっても構いません。ですが、私の家には病気がちな両親と寝たきりの祖父、幼い弟妹がいます。どうか、家の没落は……いえ、家族の命だけはお助けください。どうかご慈悲を、セラフィーナお嬢様……!」
「!?」
たったこれだけで大人のメイドがまだ十三歳の女子に命乞いってどういうことですか。
いや貴族社会とかそういう事情はあるかもしれないけど、にしても殺すはずないよね? 一族郎党皆殺しとかありえないよね? 残虐非道な悪役令嬢でもあるまいし……。
そこまで考えたところで、わたしの背筋にぞくりとした感覚が走った。
ん? 残虐非道な悪役令嬢? 趣味が悪すぎるインテリア? メイドのアルマ? ――侯爵令嬢のセラフィーナ・アルドリッジ?
まさか。まさかまさかまさか!
めり込み土下座スタイルを崩さないアルマをそのままにしておいて、痛む頭を押さえつつよろよろとドレッサーまで移動し、鏡に自分の姿を映したわたしは絶望した。
きゅるっきゅる、ウエーブがキツすぎるブロンドヘアに、宝石のようにギラギラ輝くピンクの瞳。
ただでさえ派手な印象の顔立ちを意地悪そうにみせているのは吊り上がった大きな目と鋭角な角度を描く眉毛だ。
まだ十三歳だというのに、あどけなさなど存在しない。
正真正銘の、悪女顔だ。
「知ってる、この顔。――悪役令嬢、セラフィーナ・アルドリッジだ……」
乙女ゲーム『光の乙女は愛される』では主人公を引き立てるための悪役令嬢が存在した。
純粋で無垢で天真爛漫、誰にでも愛されるかわいらしい男爵令嬢という設定の主人公に対し、侯爵令嬢で意地悪顔のセラフィーナはその主人公を卑劣な方法で徹底的にいじめ尽くす。
主人公目線でゲームを楽しむプレイヤーから見ても、悪役令嬢のセラフィーナは攻略対象たちに主人公を守らせるイベントを起こすためだけに存在する悪魔。残念でかわいそうなキャラだった。
わたしがそのセラフィーナなの……!?
ていうか、ねえ『ヒカアイ』制作者の皆さま。
残虐非道な悪役令嬢なんて、本当に存在していいんですかね。
信じられなかったけど、鏡越しに見える土下座スタイルのままのアルマを見てわたしは実感した。
アルマは、ただわたしの頭に水差しをぶつけたぐらいで本気で一族郎党殺されると思っている。
いや確かに側頭部を水差しで強打ってなかなかひどいけど! でもこれは現実だ。
絶望して気が遠くなりかけたわたしは、あらためて鏡を見た。
「とりあえず、この鋭利な眉毛を下がり眉にしよう……」
こういうのは見た目が大事だ。
その後はもう一眠りしてから考えよう。
こういうときは、寝るに限る。
前世の記憶を取り戻したわたしが一番欲しているのは、お布団のように気持ちがいい春のそよ風ではなく、本物のお布団なのだから。
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