破滅を控えた悪役令嬢が無理してヒロインを演じた結果~怠惰な余生が憧れなのに、第二王子の溺愛ルートに困惑中~
■第一章・怠惰な余生を送りたい
「まず、情報を整理しなきゃ」

 他のメイドを呼び、床にめり込み土下座スタイルのアルマを何とかして下がらせ、眉毛だけは優しげに変えたわたしは、今後の対策を考えていた。

 ちなみに、アルマにはどんなに「気にしないで、もうすっかり大丈夫だしあなたの家族を殺したりしないし大体にしてどう考えてもそれおかしいじゃん」と繰り返し伝えても信じてもらえなかった。

 むしろ念押しするほどに体の震えは大きくなっていって、なんかもう本当にごめんねって感じだった。

 床におでこをくっつけたまま他のメイドたちに引き()られていくアルマを見て、わたしは悪役令嬢セラフィーナの恐ろしさを実感していた。

 落ち着いたら今世の自分の振る舞いを思い出してきた。

 そうだ。わたしはまだ子どもと言っていいぐらいの年齢なのに、癇癪(かんしゃく)がすごくてひどく意地悪なのだ。

 メイドのミスなんて絶対に許さないし、お茶会で気に入らない令嬢がいたら熱い紅茶をポットごとぶん投げて当て、物理的に追い出す。

 アルマが怯えていたのも当然だと思う。

 けれど、両親はわたしをありえないほどに溺愛していて叱ることは絶対にない。何でも言うことを聞いてくれるのだ。

 それがまたセラフィーナのわがままをエスカレートさせていく。

 悪役令嬢セラフィーナの極悪非道さはひとまず置いておいて、このゲームがどんな内容のものなのか確認したい。

『ヒカアイ』こと『光の乙女は愛される』は恋愛に魔法や冒険のファンタジー要素を取り入れた乙女ゲームで、幅広い層に人気があった。

 平民に生まれた主人公は、ある日この世界で非常に珍しいとされる光の魔力を目覚めさせる。

 それをきっかけに男爵家に引き取られることになり、貴族令息・令嬢が集う『ルーナ学園』へ入学することになるのだ。

 そこで主人公は麗しい貴族令息たちと恋をする。

 皆からの好感度が高まれば高まるほど光属性の魔力は強くなって、主人公は『光の乙女』から『光の聖女』へと羽ばたく。

 そうして皆と協力して魔王を倒し、選んだ攻略対象と結ばれる――。

 最後には誰もが羨むハッピーエンドを迎えるのだ。

 一応、わたしは全員のルートをクリアしたはずだった。

「あれ、なんか頭痛い」

 前世のことを考えすぎたせいか、頭がぼうっとして痛い。

 何か重要なことを忘れている気がするけれど、一体何だろう……。

 少し考えてみてもわからなかったので、わたしは問題を棚上げにすることにした。

 とにかく、今はまだセラフィーナ十三歳。

 十六歳で学園に入学するまでは後三年間もある。

 その間にしっかり準備はできるだろう。

 気合いを入れ直し、黒と赤と金と紫の、悪趣味な書き物机に向かって決意する。

「わたしは今後誰にも意地悪はしないし、そんな面倒なことをするぐらいならとっとと乙女ゲームのシナリオから退場して、どこかの街の片隅で寝て暮らしたい。乙女ゲームのシナリオからはずれても、わたしは一応侯爵令嬢だもの。今から改心すれば、街のはずれでひとり、細々と暮らせるぐらいの支度はしてもらえるはず。目指せ、寝放題の人生!」

 そうして、わたしは手にした万年筆の先に力を入れ、ノートに『目指せ 寝放題の人生』と書き入れた。

 その文字は輝いて見える。

 ついさっきの、三徹の後、春のそよ風とお布団を間違って階段からダイブした前世の記憶を思えば、なんて素敵な目標なのだろう。

「今度の人生こそ、堕落した人生を送るんだもの。わたしの眠りを妨げるものは何人たりとも許さない……!」

 前世の最後の記憶が幻想のお布団にダイブする場面だなんて自分がかわいそうすぎるし、何より、あのとき思ったのだ。

 ――わたしにしてはもう一生分働いた気がするし、もし次の人生があるのならお金はなくてもいいから一日寝て暮らしたい。
 って。

「とにかく、寝放題の人生を送るために必要なのは悪役令嬢の振る舞いをやめることよね」

 まずはノートに『人をいじめない』と書いた。

 こんな当たり前のことをあらためて書く日が来るなんて思っていなかった。

 息をするように悪逆非道の限りを尽くしていたセラフィーナ、本当にすごいと思う。

「後は、シナリオからの退場後に平穏に暮らせるような環境を作らなきゃ」

 ということで、ノートに『きゅうりの栽培』と書く。

 前世でもギリギリな限界SEだったわたしは、きゅうりを主食にしていた。

 きゅうりはいい。

 お味噌(みそ)でシンプルに食べてもいいし、ごま油やにんにくのチューブを混ぜたものにぶっ込むとおつまみにもなる。

 限界が極まったときはそのままぼりぼり(かじ)るだけで水分だけじゃなくビタミンやミネラルまで補給できて、いつでもどこでも食べられる、リアルなわたしの生命線だった。

 目の前に前世での会社のデスクと栄養ドリンクがチラつきかけて最悪な気分になってきたので、きゅうりのことはまたあらためて考えようと思う。

「寝て過ごすんだから、家の庭できゅうりを栽培すれば、街まで出なくても生きていけるわよね」

 とにかく寝て過ごしたい。

「人をいじめず、きゅうりを栽培し、後は長いものに巻かれて生き、特に抵抗することもなく、余生を待つ。うん、完璧な計画だわ!」

 下手にゲームで決められた悪役令嬢としての運命に抵抗などしたら、うっかり道が開けてダラダラ寝て過ごすという夢が叶わないかもしれない。

 そんなのは絶対に避けたい。

 いじめだけはしたくないけど、その他全般においてはやる気皆無でいこうとわたしは心に決めた。

 そして、他に気になることといえば。

「そういえば、『ヒカアイ』って攻略対象はみんなイケメンだしシナリオも面白いけど、ひとつだけ難点があったんだよね……」

 ヒカアイが発売されたとき、ある独特の仕様が話題になった。

 それは――

「主人公ちゃんがヒドインちゃんすぎる、ってこと」

 ヒカアイのシナリオはよくある設定なのだが、主人公のキャラに若干の問題がある。

 主人公は、学園内、TPOをわきまえず相手の迷惑をこれっぽっちも考えずにいつでもどこでも攻略対象に突撃し、他の女子生徒に(とが)められれば「そんなつもりじゃなかったの」と涙を浮かべて言ってのけ、婚約者がいる相手も果敢に攻略していく、非常にバイタリティに満ちたいわゆる『ヒドインちゃん』なのだ。

「小説や漫画の世界で、婚約破棄を言い渡すクズ男の浮気相手として『ヒドインちゃん』が登場することは多いけれど……まさか乙女ゲームの主人公自体をヒドインちゃんにするなんて馬鹿にしてんのか、って公式のSNSがちょっと炎上してたような」

 共感できない主人公は嫌われる。

 ヒカアイの主人公もそうだった。

 でも攻略対象たちの顔がよすぎた。イケメン無罪。だからヒカアイは大ヒットした。

「でも、会ってみたら意外といい子かもしれないし、ね」

 それに彼女をいじめる予定もない。

 なるべく関わらないようにしていれば、ヒドインちゃんの影響を受けることはないかもしれない。

 そんなことを考えたわたしはぱたんとノートを閉じ、万年筆と一緒に机の引き出しにしまう。

 もう寝放題の人生への第一歩は始まっているのだ。まずは早速アルドリッジ侯爵邸の裏庭を見にいこうと思う。

 もちろん、シナリオ終了後に始まる寝放題の人生の食料・きゅうりのためだった。


 アルドリッジ侯爵邸のタウンハウスの敷地はわりと広い方だと思う。

 真ん中には大きくて豪華な白亜の城がそびえ立ち、門から眺めると、まるで絵画のようだ。。

 使用人たちが暮らす別棟に、馬や家畜が暮らす厩舎(きゅうしゃ)、大量の備品などを保管するために建てられた倉庫、客人を招いたときにガーデンパーティーができる中庭、さまざまな種類の花が咲き誇り果樹園まである庭園。

 そこに、わたしは殴り込みをかけようとしていた。

「セ、セラフィーナお嬢様、それは何でしょうか」

「きゅうりの種よ。お父様にお願いして取り寄せてもらったの」

 顔を引き()らせて聞いてくるメイドのアルマに向け、わたしは紙袋に入ったきゅうりの種を高く掲げてみせた。

 何も言ってこないものの、アルマは目を泳がせて紙袋だけではなくわたしの服装の方も結構気にしている。

 それはそうだと思う。

 今のわたしの格好は質素なワンピースにエプロン、足元には長靴。手には軍手とスコップ。完璧な家庭菜園スタイルだった。

 メイドが準備してくれたドレスが地味だ、と癇癪を起こしていたセラフィーナはもういない。その節は、皆本当に申し訳ございませんでした。

 話をきゅうりに戻したい。野菜の種がほしいとお父様に言ったところ、お父様はとてもびっくりしていた。

 まぁ、意地悪だけにしか興味を示さず、ほしいものといえばドレスか宝石だったセラフィーナが急にこんなものを頼んだのだから、驚くのは当然のことだと思う。

 けれど、驚きながらもきちんときゅうりの種を買ってきてくれた。脊髄反射のように何も考えずわたしのお願いを叶えてくれるお父様ありがとうございます。

 淑女がみっともない、と怒られるかなと心配していたけれど、お茶会で他家の令嬢に熱いポットを投げつけるのを許す父親だ。きゅうりに夢中になるぐらい本当にどうでもいいことなのだと思う。

 ところで、この紙袋には『発芽率が段違い! 家庭菜園初心者の方用のきゅうりの種』と書いてあった。

 最高。これならきっと、初心者のわたしにも簡単にきゅうりを栽培できるはずだ。

 これで、家の敷地から一歩も出ずに寝て暮らせる生活が待っている。

 わたしはそう信じていた。



 ――三週間後。

「あれ!? また枯れてるわ!?」

 バラ園に囲まれた庭の一角、優雅な雰囲気をぶち壊しにする野菜畑。

 周りは色とりどりのバラが咲き誇っている。

 今は淡いピンクのスプレーバラがきれいで、小さな花をたくさんつけ芳しい香りが漂ってくる。

 けれど今問題なのはきゅうりのことだ。

 三週間前、きゅうりを植えた翌日に芽が出た。

 早すぎる、と驚いたけれど、ここは乙女ゲームの世界。

 きゅうりはきゅうりでも、少し育ち方が違うのかもしれない。

 話を戻したい。わたしは生まれたてのその芽に優しく水をやり、毎日見守った。

 けれど三日目の朝、葉っぱが(しお)れ始め、端っこに茶色い斑点が目立つようになり、四日目の朝にはすっかり枯れてしまったのだった。

 当然、ダラダラ過ごす憧れの生活を前に、たった一度の失敗程度でこのわたしが諦めるはずがない。

 わたしはその日のうちに新しい種を植えた。

 そうして水やりをして、一晩待った。

 翌日、同じようにきゅうりの芽が出ていた。喜んだのは束の間、三日目の朝にはまた同じことになってしまった。

 いくつか植えた中では五日目までもったものはあったけれど、それも葉っぱに虫食いができてしまって、それ以上育てることは叶わなかった。

 けれど、わたしがそんなことで諦めるはずがない。デバッグ地獄に慣れた前世SEなめんな。

 ということで、肥料を配合する割合や水やりの頻度を変えたりしながら根気よく種()きを繰り返していたら、いつの間にか三週間が経過してしまっていた。

 ここまでくると、さすがに素人のわたしでもわかってしまう。

「これは偶然じゃない。普通に、わたしが育てるのが下手なのだわ……」

 手元の紙袋には『発芽率が段違い! 家庭菜園初心者の方用のきゅうりの種』の(あお)り文字。これを書いたのは誰ですか。完全に嘘だよね。

 悪役令嬢・セラフィーナとしての血が騒ぎ始めたところで、わたしの怒りの気配に、付き添ってくれていたメイドのアルマが尻もちをついた。相当に怖かったみたい。ごめん。

 ちなみに、アルマは生贄(いけにえ)のような形でわたしに差し出されている。

『あの日(側頭部を水差しで殴られて気を失った日)以来、お嬢様の様子がおかしい→これまで以上に何をしでかすかわからなくて怖い→殴った張本人のアルマに任せよう』の図式らしかった。

 畑の横にはテーブルセットが設置され、テーブルの上には休憩用の飲み物と軽食が準備されているけれど、わたしがそれを使うことはない。

 だってきゅうりに本気だから。

 当然主人が休憩しないのでアルマに座ることは許されない。

 アルマ、いかにも貴族のお嬢さんが勉強のために侯爵家で働いてます、って感じで体力なさそうだけど大丈夫かな。

「アルマ。昨日も伝えたけれど座っていて。誰にも言わないから、そこのお茶も飲むといいわ」

「いえっ……だ、大丈夫です」

 尻もちをついたせいで汚れてしまったスカートの泥汚れを払いつつ、アルマはふらふらよろめきながらぎこちなく立ち上がった。

 今世、メイドたちとはまともに会話ができた記憶がないけれど(もちろんわたしがいじめるからだ)、最近ではこうして「ひぃっ!」以外の返事もくれるようになった。

 悪役令嬢からの脱却が進みつつあると信じたいな。

 そして、今問題なのはきゅうりだ。きゅうり。

「どうしてだめなんだろう。土にはちゃんと肥料を加えているし、お水もあげてるのに」

 肥料の割合も、水やりの頻度もこれ以上の対策は思いつかない。

 だってわたしには野菜を育てたことなんてないんだよ? 誰か農家の人、異世界転生してきてきゅうりの育て方教えてほしい……!

 ふかふかの土の上にがっくりと膝をつき、落ち込みかけたわたしの上に影ができた。

「セラフィーナ様。最近、妙なことをされていると思えば、お花を植えられていたんですか。いつものように使用人に石でも投げて命じればいいものを」

 それは、十代前半の男の子独特の、子どもらしさと大人っぽさの両方を感じさせるほんの少しハスキーな声。

 甘さが残る声音に似合わない刺々しい言葉選び。

 わたしが顔を上げると、幼さを残した顔立ちのイケメンがいた。

 太陽の光に透けるサラサラの茶髪。現代日本だったら『ワンコ系』とでも呼ばれそうなかわいらしく整った顔立ち。

 そして、ピンク色の瞳はわたしと同じもの。

 セラフィーナの血縁であることが一目でわかる容姿をしている。

 彼はセラフィーナ・アルドリッジの一歳年下の弟で、名前はカイ・アルドリッジ。

『ヒカアイ』攻略対象者のひとりで、ワンコ属性の年下男子だ。もちろん、ワンコな表情を見せるのはヒドインちゃんの前だけ。

 姉であり悪役令嬢のセラフィーナにはとことん冷たいのだ。

 まぁそれはわかる気がする。

 だって、子どもの頃から姉がメイドとか令嬢仲間をいじめるとこ見てるんだもんね。さすがに嫌いになるよね。

 三週間ほど前にわたしが前世の記憶を取り戻してからも、カイはわたしにめちゃくちゃ冷たかった。

 廊下で会っても知らんぷりだし、話しかけようものなら絶対零度の視線で睨まれる。

 それがちょっとかわいいと思ってしまうのは、彼がヒドインちゃんの前では忠犬なワンコ男子になるという前世の記憶があるからだ。

 あ、いけない。わたしは攻略対象には関わらず、寝て過ごせる平穏な没落生活を目指すのだから。

 ――けれど、今世での人生を振り返ると、ただカイがセラフィーナに冷たいというだけではないような気がする。セラフィーナ――というよりはむしろアルドリッジ侯爵家がカイに厳しく接しているのだ。

 その理由はカイの出自にある。

 カイはお父様が外に作った子どもだ。

 元は、カイが生まれたときに手切れ金と養育費を一括で払い、親子の縁を切ったはずだった。

 けれどわたしが七歳の頃、お母様にはもうこれ以上子どもが望めないとわかった。

 アルドリッジ侯爵家の子どもは女の子であるわたしひとり。この国では女子が家督を継ぐことは許されていない。

 ということで、王都のはずれ、寂れたあまり治安がいいとは言えない地域で暮らしていたカイは無理にアルドリッジ侯爵家に連れてこられた。

 当時、セラフィーナの第一声は『なにこの汚い子?』だったような……。

 あー思い出してきた、思い出してきた。そしてわたしは右も左もわからず怯えているカイに向けて言ったのだ。

 ――「ここにはあなたの居場所なんてないし、この家のものは何ひとつ渡さないわ。せいぜい道具として役に立ってちょうだい」

 って。

 うわー、七歳でこんなにひどいことを言えるなんて、セラフィーナって悪魔の使いか何かでは? むしろ悪魔でもいいのでは?

 さらにひどいことに、それをお父様もお母様も止めなかった。むしろ、心を病みかけていたお母様は止めるどころかわたしに味方した。

 アルドリッジ侯爵家にカイが信頼できる人間はいない。ただ跡取りとして厳しく(しつ)けられるだけの毎日だ。

 そんなカイの心に寄り添うのが『ヒカアイ』の主人公なのだ。優しく明るい主人公は、カイの傷ついた心を癒やしていく。

 ……カイのためにも、乙女ゲームのシナリオが早くスタートしてほしい。そして主人公にはぜひカイを攻略対象に選んでほしいな。

 前世の記憶を取り戻してからいじめるのはやめたけれど、カイはわたしを全く信頼していないしそれどころか反吐が出るほどに嫌いだと思う。

 そんなことを考えていると、カイはガーデンテーブルに置かれた紙袋に興味を示したようだった。

 わたしが止める間もなく、それを手にして美しい形の眉を怪訝(けげん)そうに(ゆが)める。

「――〝きゅうりの種〟?」

「そうよ。きゅうりを育てようと思って」

「……誰がですか」

「わたしがよ」

「……セラフィーナ様が、きゅうりを?」

 カイは一体こいつは何を考えてんだ、という顔をしている。

 それはもう本当にそうだと思う。

 だって、ついこの間まで癇癪を起こして屋敷中の人々に八つ当たりしまくっていたひどい義姉が、突然きゅうりに夢中になり始めたのだ。

 いや、きっときゅうりじゃなくてもこうなっていたと思う。イチゴやメロンとかのかわいい女子系果物でも誤魔化せなかったと思う。

 だってわたしの足元は長靴だし、カイの視線がわたしの鼻のあたりに留まっていることから推測するに、そこにはきっと土汚れもついている。

 自分の存在がもうあきらかにおかしい。こうなったらヤケクソだ。

「わたしは将来きゅうりを育てて暮らそうと思って」

「は」

「きゅうり、おいしいでしょう? わたしは三年後に『ルーナ学園』に入学するけれど、卒業したらひとりで生きていくつもりなの。そのときのために自給自足の訓練を」

 自給自足っていうか寝て暮らしながらきゅうりを齧るためなんだけどね。

 そう思って微笑(ほほえ)むと、カイはつい今までのぽかんとした表情を引っ込め、片方の口の端を軽く上げて歪ませた。

「セラフィーナ様は僕のことを『アルドリッジ侯爵家の道具』だとお思いなんじゃなかったですか? 表向きは家督を継がせても、実権を握るのはあなた様ではないのですか。今おっしゃった展望はセラフィーナ様の将来の展望と著しく矛盾しますけど」

「それは」

 本当はそんなことない。

 だってわたしは本当にこの家を出ていくつもりなんだもの。

 家督はもちろん、お金だって分不相応には要らない。

 どこか治安のいい町にベッドときゅうりの庭だけが置ける小さな家さえ買ってもらえたら、後はカイにはもう関わらないし自分でなんとかします。

 けれど、そう告げたところでカイは信じないだろう。

 これはもうどうしようもないこと。

 セラフィーナであるわたしが異母きょうだいのカイに辛く当たってきた報いだ。

 そして、カイはさっきからわたしを『セラフィーナ様』と呼んでいる。わたしがカイに『お姉様』『姉上』と呼ぶことを許さなかったからだ。

 もちろん、イケメンの弟に名前を呼んでほしいとかそういう乙女ゲームの女子的発想からでは全くない。

 ただ、目障りな存在を家族の一員として認めたくない、そんな理由からだった。

 あれこれ考えたものの、どう答えたらいいのかわからなかったわたしは大事なことだけを正直に話すことにした。

「今さらこんなことを言っても響かないと思うのだけれど、わたしはあなたを道具だなんて思っていないわ」

「幼い頃からあれだけ罵倒しておいてよく言う」

「……本当ね……」

 正論すぎてぐうの音も出ない。二言目には言葉に詰まってしまったわたしを見て、カイは調子が狂ったようだった。

「今日のセラフィーナ様はどこか具合でも悪いのでしょうか? お話しになっていることがあまりにも支離滅裂です」

「それは……本当にそう」

 そこでふと、『ヒカアイ』の主人公とワンコ系侯爵令息カイの出会いの場面が思い浮かんだ。

 学園に入学してしばらく経ったある日のこと、授業で『契約精霊のエサとなる野菜を育てる』という課題が出される。

 学園の敷地内、到底畑には見えないオシャレな畑で主人公は課題にことごとく失敗してしまう。

 そこで現れるのが、カイなのだ。

 侯爵家の令息ではあるものの、子どもの頃は市井暮らしで畑も手伝っていたカイは農業のことにとても詳しかった。

 種蒔きのちょっとしたアドバイスをもとに、ふたりは接近して恋に落ちるのだ。

 あのとき、カイはなんて言ってたかな。

 カイのルートは一度しかプレイしなかったし、どうしても思い出せない……。

 そうだ。きゅうりの育て方は、今目の前にいるカイに直接聞けばいいのでは?

 ……と思ったけれど、どう考えても無理だった。

 だって、わたしはついこの前まで周囲のあらゆる人間をいじめ倒し八つ当たりする悪役令嬢だったんだもの。

 普通は助けようなんて思わないよね。

 ガックリと肩を落としたところで、カイが屈んで枯れたきゅうりの双葉を観察していることに気がついた。

 カイは枯れた双葉を引っこ抜き、しげしげと観察しながら聞いてくる。

「セラフィーナ様は本当にどうかしているのではないですか」

「今後の人生の主食にきゅうりを選びたいと思っているのは本当よ。冗談ではないわ」

「……そういうことじゃありません。普段、メイドをあのように座って待たせる姿なんて見たことがありませんから」

 カイの視線の先には、縮こまって遠慮がちに椅子に座るアルマの姿があった。あ、よかった。疲れたから座ってたんだね。
 ほっと息を吐いたわたしの耳に、カイの小声が届いた。

「きゅうりは直に蒔くのに向いていない」

「えっ?」

「きゅうりは初めはプランターなんかに種蒔きして、強く育ったところを畑に移すんだ。そうすれば枯れにくいし、虫に()われて芽が出て以降育たない、なんてことはなくなる」

「えっ、もう一回」

 どうやらカイはアドバイスをくれているらしい。

 信じられなくて聞き逃し、もう一度説明させようとしたわたしを、カイは心底面倒そうに睨んだ。

 わたしはわたしで、わぁ、異世界の男子でもガンつけることってあるんだな、って当たり前の感想を持ってしまった。

 カイは何も答えずに、適当にその辺においてあったプランターを手に取った。

 これは別にわたしが買ったわけじゃない。

 お父様が一式手配してくれたおかげでここにある。

 それを見て、カイは「ふぅん。一応調べて道具は準備したんですね。セラフィーナ様が。意外です」と(つぶや)く。

 本当は全然そうじゃないのだけれど、わたしはそういうことにしておいた。

 けれど、わたしの本気度は伝わったらしい。

 カイはプランターとスコップを手に取ると、無言で何やら始めたのだった。


「これで完成です。さっきも言いましたが、種を蒔くときは横向きにして、等間隔で」

「へぇ~! カイ、すごいわ!」

 わたしの目の前には、ふかふかの土がこんもりと盛り上がったプランター。

 ここにはきゅうりの種が植えられている。

 カイによると、きゅうりを育てるにはいきなり畑に種を蒔くのではなく、別のところである程度まで育ててから植え替えるものらしい。

 そういえば、前世でもホームセンターなんかで野菜の苗を売っているのを見たことがあるような。

 なるほど、種じゃなく苗が売られているのはきちんと理由があったのね……!

「……虫がつかないように注意しながら数日育てて、双葉が強く育ったものだけを畑に移すんです」

「なるほど。強く育ったもの、ってどこを見て判断したらいいのかしら?」

「葉っぱの色ですね。緑色が濃く、元気なものを選んでください」

「はい」

 はきはきと返事をしたわたしは、アルマが座っているテーブルに置いてあったメモ帳を手に取り、カイのアドバイスを書き留めていく。

 悪役令嬢セラフィーナを嫌っている義弟のカイがこんなふうにいろいろ教えてくれるなんて、もう二度とないと思う。

 そう思ったと同時に、今世のわたしがカイにどんな振る舞いをしてきたのかが思い出されて、心がずしんと重くなった。

 カイには自分にひどいことを言い続けた義姉を助けてくれる優しさがある。

 それなのに、セラフィーナはただ自分の立場を奪われるという危機感だけで、どんな相手なのか見極めることもなくカイをいじめてきた。ひどすぎる。

 けれど、今さらわたしに謝られても彼には絶対届かないしふざけるなと思うだろう。しかも、現時点のカイはわたしに謝られてしまったら許すしかないのだ。

 結局、これまでのことを謝ったとしても楽になるのはわたしだけ。

 カイにとってはまた悔しい思い出がひとつ増えるだけなのだろう。

『ヒカアイ』の主人公に出会って救われるまでは、カイにとって辛い日々は終わらない。

 そう思ったら、何も言えなかった。

 せめて、わたしが伝えてもいいのはお礼までなのだ。

「ありがとう。とても助かったわ」

 ゆっくりと、言葉を選んで伝える。

 するとカイはわたしから目を()らした。

「……平民育ちの汚い僕にお礼を言うなんて、セラフィーナ様はどうかしているんじゃないですか」

「…………」

 何と答えたらいいのかわからない。

 カイにとっては、三週間前までのセラフィーナとは別人すぎるのだと思う。わたしだって、許してもらおうなんて虫のいいことは考えてないよ。

 数秒間考えた後で、わたしはやっと口を開いた。

「本当にどうかしているのかもしれないわね。じゃあ、こういうのはどう? 種蒔きを手伝ってくれたし、何かお礼をしてあげる」

 ――平民育ちの卑しい人間には施しを。

 そんな意図があると、賢いカイならすぐに気がつくことだろう。そして、悪役令嬢セラフィーナとしてわたしに許されるのはこんな振る舞いのはずだ。

 わたしはカイにお礼ができて個人的に満足するし、カイもセラフィーナからの謝礼を疑うことなく受け取ることができる。

 悪役令嬢っぽく、ツンとすまして言えば、カイは幼さが残る美しい顔を歪ませた。

「それなら、この前お願いした件に許可をいただけるようお父様に進言していただきたいです」

「……この前のお願いって……?」

 カイの言葉に、わたしは記憶が戻る直前のことに考えを巡らす。

 もちろん、今世での悪役令嬢セラフィーナの言動は今のわたしの意思とは違うものだけれど、きちんと覚えている。

 けれど、頭に強い衝撃が走って前世を思い出したせいで、その前後数日間の記憶が曖昧なのだ。

「もう忘れたのですね」

 すぐに答えられず聞き返してしまったわたしに、カイからさっききゅうりの育て方を説明してくれていたときの戸惑うような空気が消え、いつもの刺々しい表情が戻ってきた。

 フン、と馬鹿にするように笑うとカイは続ける。

「僕の生家の妹が病をこじらせて、長い期間伏せっています。お見舞いに行かせてほしいとどんなに願っても、この家の人間はそれを許可してくださらなかった。ただ見舞金と医者を手配してそのままだ」

 カイの説明でわたしはやっと思い出した。

 そうだ。わたしが記憶を取り戻す少し前、王都のはずれで暮らしているカイの家族から連絡が来たのだ。

『カイの妹が病にかかり、伏せっている。お金がなくて医者に診せられないので資金を工面してほしい』という内容だった。

 カイの実家からアルドリッジ侯爵家にはたまに手紙がきていたらしい。

 けれど、直接カイ宛てに来るのは滅多にないことだそうで、カイは(いた)く心配していたのだ。

 黙ったままのわたしに向けて、カイは吐き捨てた。

「ただ金を渡せば済むと思っているのでしょう。そうすれば、僕の家族は特別に騒ぐことはないですから。僕がお父様が外に作った子どもだということは公然の秘密のままで、アルドリッジ侯爵家の体面は保たれます。おきれいな貴族とはさすがですね。汚い平民育ちの僕には理解し難いことばかりです」

「わかりましたわ。では、今からカイの生家に向かいましょう」

「……は?」

「今から妹さんのお見舞いに行きましょうって言っているの。あなたを見張りたいから、わたしもついていきます。お見舞いは何がいいかしら。お花? お菓子? それとも料理人に何か作らせようかしら?」

 高圧的に答えると、カイは心底意味がわからないという顔をした。

「何を考えているんですか?」

「別に何も。ただあなたが家族に会いたいってぴーぴー泣いているから、かわいそうになったのよ?」

 わたしの言葉にカイは唇を()んだ。

 ひどいことを言っている自覚はある。でも、こうでもしないとカイにお礼はできない気がする。

 わたしは立ち上がると、長靴をはいた足で令嬢らしく歩き始めた。そこへ、アルマが慌ててついてくる気配がする。

「料理人に昼食とお菓子を作らせてくれるかしら? 一時間後には出発するわ」

「か、かしこまりました……!」

 真っ青な顔をしたアルマは悲鳴のような返事をするとともに駆けていった。

 一方、カイは呆然(ぼうぜん)としている。わたしの言っている意味が本当にわかっていないみたいだった。

 まぁ、当然だよね。
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