遺言ノ花嫁

雨の中長々歩くのは面倒極まりないけど
背に腹はかえられない。
残業後の腹ごしらえほど
私にとって重要なものはない。

女っ気がまるでない私が婚活していくにあたって
アピールできるのは料理上手くらいのもんだ。
婚活… そう、婚活なんだよ今の私の問題は。

31歳 彼氏いない歴4年と3ヶ月。

社長にすすめられてダウンロードしたアプリに
何件か来ていたいいねを全て返すのが
ここ最近の私の日課化してる。
別にめちゃくちゃ結婚したいのかと考えると
実際はそうでもない。

元々両親を早すぎるくらい早くに亡くしてるし
高校までは施設育ちだったから
自分のことは自分でやるスタイルがこびりついてて
一人の方が楽なのは間違いないんだけど、
歳も歳なんだから結婚は置いておいても
パートナーくらい作ったらどう?と
社長に一言添えられたその日の帰り道には
もうこの婚活アプリをダウンロードしてた。

でもなんというか
同じようなメッセージのせいで
まったく返信する気が起きないのは
私のこの性格のせいなのかな

スーパーに少しずつ近づいてきた頃合いで
雨足がだいぶと弱まってきた
買い物帰りは傘がただのお荷物となる
私が一番嫌なパターンになりそう。

さぁ、どうする。
コーンクリームシチューでフランスパンも買い込むか
3日分くらいのおでんを作って
缶チューハイと祭りを開催するか…


「橘 小春さん」


何処からか雨の音と街の喧騒に混じって
聞こえた呼び慣れていないフルネームに
くるくると首を回せば
ばちっと音が鳴りそうなほど目が合った男の人の姿

真っ黒のスーツに真っ黒のネクタイ
身長は175〜180cmほどだと思う
真っ黒な傘を片手に私を見つめながら

「橘 小春さん」 と
もう一度、今度は目を見てハッキリとそう言った


私には所謂霊感だとか、
第六感だとかそんなものは皆無なんだけど
感が働くとはまさにこのことかもしれないと確信できる程には目の前の人物が危険だと
体が勝手に判断している。

何も言えずに固まってしまった私の元に
一歩、一歩近づいて

「少しお時間いただけますでしょうか?」 と
ビニール傘越しに、
唖然とする私を見下ろしてそう言った後
目線を車道に移した

見慣れない真っ黒の磨かれた高級車が一台
雨粒を綺麗に弾いて
チカチカとランプを点滅させながら停まっている


なるほど、あれに乗れと。

指先がかじかんで冷たい
この何秒間の間に色々なことが
ものすごい速さで頭の中を駆け巡っていく


Q.1 この人は誰なのか
全く知らない。顔に見覚えはないし
そもそも男性の知り合いはほぼ居ない。

Q.2 なぜ私を知っているのか
そんなこと私が聞きたい。

Q.3 この車に乗っていいのか
ダメ。絶対。


「私、明日も朝から仕事があるのであまり時間がなくて。すみません。」


もっとマシな言い訳と思ったけど
相手にどう映ってるか分からないにしても
私は私の中でそれなりに怖くて焦ってはいるし
どう考えても普通ではない状況に
なんとか動揺を見せないようにと必死になってはいる。

「そこをどうにか、お時間いただけませんかね」
「いや、だから今日は」
「ご同行頂けない、となると多少手荒な真似になってしまうんですけど、すみません。」

おいおいおい、口調に優しさと丁寧さが
滲み出てるくせに物騒すぎるでしょお兄さん

口が動くより先に踏み出した一歩は
後ろから伸びてきた手によって
ものすごい力で阻まれて
口元に当てられたハンカチのせいで
震えながら出した声はほぼ聞こえない
そもそも怖くて大声すら出せてないのかもしれない

そのままズルズルと引きずられて
高級車の後部座席に押し込まれた

きっとほんの数秒の出来事だったと思う
もしスーパーに寄らなければ
いつものように繁華街の方から帰ってたのに。
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