冷酷な狼皇帝の契約花嫁 ~「お前は家族じゃない」と捨てられた令嬢が、獣人国で愛されて幸せになるまで~
 サラは戻っていく狩人の馬車を見送ったあと、隠れ場所を探そうとしたのだが、その数分後に“服を着た獣”につかまってしまったのだ。
 横から飛び出してきた黒い影にかっさらわれた瞬間、サラは『あ、さよなら私の人生……』と本当に走馬灯が見えかけた。
 しかし、そのハイエナのような大きな動物は、サラをそのまま噛み砕いたりはしなかった。
 大柄な男の姿になって、サラを小脇に抱えていた。そして彼は、遠くからでもちかちかと光る金髪の娘をつかまえられたぞと、得意げに仲間たちに自慢したのだ。
(この“金色”って周りではなく、本人を不幸にするだけなのではないかしら……)
 驚いたことに、ガドルフ獣人皇国とは“ちゃんとした国”だったらしい。
 森が開けると町があった。
 道も整備されていて、そこはたくさんの“人々”が行き交っていた。見た感じからすると、庶民が暮らしている町のようだった。
 それでいて人間の国と変わらず、この国もまた治安が悪い場所はあるみたいだ。
 サラたちの檻をのせた輸送用の大型馬車が向かったのは、隣の店と区切るため左右と奥に布が張られ、日差しよけの屋根がついたこの大きなテントだ。人々は檻ごと降ろされていくサラたちをとくに気にしなかった。
 それから驚いたのは、彼らが人間の姿になったり、獣っぽい姿になったりすることだ。
 檻に入っている子供たちは降ろされる際にパニックになって、子熊のような獣耳と尻尾がぽんっと生え、手には長くて頑丈そうな爪が伸びた。
 そうすると降ろしていた男たちは、ガンッと檻を揺らした。
『きちんとしまえっ。それくらいは学習している奴じゃないと引き取ってもらえないぞっ』
 どうやら獣人族は、獣っぽい部分を『しまう』のが作法のようだ。
 そのせいなのか町を歩いている獣人たちはみんな人間の姿をしていている。
(こうして見ると、平和な町だわ……)
 とはいえ人々の暮らしぶりが自分たちと変わらないとはわかっても、テントから見える通りを眺めていると、大きすぎる狂暴そうな馬や、熊みたいな四足歩行の動物に乗っている商人もいて、ここが自分の知っている国ではないのもよくわかる。
 この状況をどうしたらいいのか何も浮かばなくて、ある種茫然自失状態でもあった。
「狩人さんと約束したのに……」
 ぽつりとつぶやいたサラは、座り込んだ。
 暴れても体力を失うだけだ。こういう時こそ落ち着こう。
 冷静になれば何かしら案がひらめくことはある。
 いつもしていることだったので、膝を抱えてじっとしていた。罰で地下牢に入れられた時も、こうしていれば落ち着けた。
 焦っても、時間ばかり過ぎて解決にはならない。
(せっかくいただいたものなのに……荷物を取られてしまったのも残念だわ)
 名乗る代わりに『狩人』と教えてくれた彼は、庶民であるし、あれを準備するのにも苦労もしたことだろう。
 サラは先程、自分をここに降ろした男たちの話から“人間”はとても珍しいと知った。
 きっと、高く売れるだろう、と。男たちは人身売買の売人だ。
(人間が市場に出るのは珍しいと言っていたし。食べられるの? それとも薬にされる……とか?)
 推測しようとすると、最悪な展開なんていくらでも浮かんだ。
(殺されて調理されるのはちょっと……ああ、でも、生きたまま踊り食いをされる方が痛いわよね……ううーんそれなら一度で仕留めていただいて、せめて髪の先まで妙薬に使われた方が……)
 でも、どちらにしろ死ぬ時は、ものすごく痛い思いをするだろう。
 息をつきながら、膝に頭を押しつける。
 屋根の下で暮らせるのは、とてもありがたいことだと実感した。ひどい仕打ちを受けたけれど……確かにサラはこの年齢まで生きられた。
 辺境伯家で暮らしたことに感謝こそすれ、家を恨むことはない。
 もう終わったことだ。今は、生きることを考えよう。
 サラは膝から顔を上げ、目の前を見た。
 そこにあるのは指以上に太い鉄の柵だ。なぜこのような太さがあるのかと、今になって気になってきた。
 その時だった。
「出してー!」
 不意に聞こえた子供の声に、胸が緊張でひゅっと痛んだ。
 続いて聞こえた金属音にハッと目を向けると、獣の耳と尻尾のある子供が、太い獣の爪で鉄格子を叩いて音を立てていた。
 ミシ、ミシ、と檻がきしんでいる音がする。
(――あ、だから頑丈なんだわ)
 サラは驚いた。
 どうやら獣人族というのは、子供でもかなり“力持ち”らしい。
 先程男たちが檻を一人で抱え、普通に降ろして運んでいたことにも、驚かされた。
 テントの前にある通りで話し合っていた男たちが「ああ?」と目くじらを立てる。
「だ、だめよっ、また怖いこと言われてしまうわ」
 サラは子供の方を向くと、鉄格子を掴みできるだけ優しい声で言う。
「ね、落ち着いて? こっちを見て」
 必死に声を潜めながら自分を指差して言い続けると、ふー、ふー、とピンと耳を立てて毛を逆立てていた子供が、ようやくこちらを見た。
 興奮状態だった彼が、途端に目をうるっと潤ませた。
(あら、かわいいわ)
 鼻を「ぐすっ」とすすった彼は、人間と大差などない怯えた子供だった。
「大丈夫よ、大丈夫……」
 サラの声に、男の子が徐々に落ち着いていく。
 こちらを睨んでいた男たちが「おや」という顔をした。
「あの娘、なかなか使えるな」
「役に立っても売られるだけなんだけどなぁ」
「まぁいい。騎士団の巡回が来る前までには売りさばくぞ、客集めはお前と――」
 男たちが仕事の話に戻る。
(ちゃんと騎士団も機能しているみたい)
 この国でも、これは治安が悪い場所で行われている違法行為なのか。ほっとしたサラは、男の子がまたぐずりそうな気がして慌ててなだめに戻った。
「だ、大丈夫よっ。ひどいことにはならないわ」
「どうしてそんなこと言えるの」
「ほら、私の方が珍しいから、……薬の材料になっちゃったり、踊り食いをされたり……」
 言うごとに、どんどん肩が重くなっていった。
 サラに注目していた他の子供たちも、同情でいっぱいの顔になる。
「かわいそう、お姉ちゃん……」
(やっぱり買われたら死ぬのね……)
 内心は彼女こそ泣きたくなっていた。子供は素直だ。子供たちから向けられた同情の目を見ていると、今さっきサラが口にした内容が事実なのだとわかる。
 けれど結果的に落ち着かせられたので、いいかとサラは納得することにする。
「ところでいくつ? あ、ちょっと待って。十二歳だ!……あたった?」
「えっ?」
「僕、八歳」
「僕は十一歳だよっ」
 怖さを吹き飛ばしたいのか、他の子たちも泣かないように明るい声を出してきた。
 健気だが、サラは笑顔から困惑顔になってしまう。
(まぁ、どうしましょう……この国では女性はもっと大きかったりするのかしら……?)
 サラはあまり食べさせてもらえなかったから、確かにやや細すぎるし、体格的にも頼りない感じがあるのは自覚していた。
 けれど、視線を落としてハタとする。
(あっ、そうかドレスではないから)
 着せられた服は、レディにしては少女っぽさがある。
 スカート丈は膝よりも少し下くらいで、コルセットはなく、腰を布で締めて大きなリボンで留めてある。
 髪も、それらしく見えるような装いはしていない。
 狩人が『この荷物を持っていると庶民姿も完璧だ、旅をして歩いていてもあやしまれない』と言ってくれていた。それはレディの意味ではなく、少女の意味合いも含んでいたのだ。
(それで男の人たちは私を子供枠だと誤解して……?)
 欲しいのが子供だったとすると、サラの商品価値はない。ますます生存率がガクンと下がる気がした。
 けれど、ここはひとまず、子供たちを少しでも安心させたい。
「私は十七歳よ……今年で十八歳になるの」
「うそーっ」
 こそっと教えると、叫び声がテント内で起こった。
「うるっせぇ!」
 男たちが怒鳴り声を投げてきた。
 クワッと口が開いた時、獣の歯が見えてサラは驚いた。
「ご、ごめんなさいっ、すみません、静かにさせますから……」
 サラは男たちに謝ると、子供たちに協力を仰ぐ。彼らは頼れる大人と見たのか、ぴたっと静かになってくれた。
(ふぅ……この行為が違法なら、助けを呼べばどうにかなるかもしれない)
 サラは子供たちを見た。脱出して一番年上のサラが助けを呼びにいく――と考えたところで、途端に考えが煮詰まった。
 そもそも方法がない。サラは使用人がするような仕事はお手のものだが、鍵なしで解錠したり速く走ったり、そんな技術も体力もない。
(他に、他に何か……)
 荷物も取られてしまった今、サラだけがもっているもの。
 しかしそれを思い浮かべた途端、またしても彼女の口からため息がこぼれた。
(ああ……私のもっている“特技”も、脱出にはなんの役にも立たないものだったわ……)
 実は、サラは“あまり役に立たない不思議な力”をもっていた。
 ちょっとの怪我だと治せるのだ。
 家事は水を使うものが多い。そのうえ母たちはわざと寒い時に限って、サラを屋敷の外の掃除をさせたり水洗いをさせたりした。
 けれど洗濯や掃除で指が切れても、サラは治せた。
 痛みも飛んでいくのでとても便利だ。そのためあかぎれも怖がることなく洗い物も前向きに行えた。
 おかげで惨めな気持ちにかられずに済んだ。
 とはいえ、この場においては、全然役に立たない“能力”だ。思わずため息をこぼしてしまったその時、不意に爆音のような衝撃音が響き渡った。
「きゃあっ」
 強い風が吹き込むのを感じ、サラは咄嗟に頭を抱えた。
 急ぎテントの前を見る。そこに立っていた男たちが、右手の方角へ顔を向けているのが見えた。
 と、思ったら、彼らが今度は一斉に左手へと駆けだした。
「え……?」
 どうして、と思ったその次の瞬間、人々が逃げ惑っているテントの前の道から突如、狼の唸り声が響き渡った。
 すると驚くサラの目の前に、何かが飛び込んできた。
 それは獣耳と大きな尻尾をもった一人の男だった。肩からかけたファー付きのコートを揺らし、爪が飛び出た大きな手で売人たちの後頭部を掴む。そして彼は、一瞬にして彼らの顔面を地面に叩きつけた。
「痛っ」
 サラは、思わず顔をしかめてそう言ってしまった。
 彼のそばから、騎士服の男たちが飛び出して残る売人たちを取り押さえにかかった。彼らもまた獣の耳と尻尾が出ていた。
 その騒ぎで、サラたちのいるテントの前に皆の視線が集まった。
 野次馬たちがなんだなんだと見てくる。歩いていた彼らは町の人たちで、周囲の店の店主らしき男たちもびっくりして顔を出していた。
「誰の許可を得て商売している。ここは亡き兄上の領地だ」
 男が、上等そうな軍服仕様の黒いコートを揺らして立ち上がる。
 彼はアッシュグレーの髪をしていた。売人たちを見下ろして睨みつけている目は、凍えるように冷たい。明るいブルーの瞳のせいかもしれないと、サラは思った。
(……彼、兄の領地と言ったわ)
 きっと、どこかの貴族に違いない。
「も、申し訳ございません」
 地面に叩きつけられた男たちを心配したサラだったが、彼らはパッと起き上がると、すばやく正座をして額を地面に押しつけた。
 売人たちがかなりびくびくしている様子から見ると、コートを着た男はとても身分が高いのだろう。
 彼は、確かに威厳に溢(あふ)れ貴族紳士らしい品があった。
 すると聞き届けて数秒、その男のゆらりと揺れていた狼の大きな尻尾が消え、耳が人間のものへと変わった。
 その途端に殺気は半減し、サラは呼吸がしやすいような感覚になった。
「それで? なぜ貴様らは兄の領地に入って、許しも得ず商売をしている? 兄上の領地内では、そのような商いは制限されている」
「し、しかしながら、恐れ多くも申し上げます。労働力の売買は違法ではございません」
 先頭にいた売人を筆頭に、慎重にコートの男の顔色をうかがいながら彼らが頭を上げた。
「それに強制労働制度を見ている公正取引委員会長のアジャービ様も、ここは数年前から領主不在で保留の地になっている、と。当時の領地令はすでに無効だと知らされました。そもそも、すでに亡くなった者の土地ですし――」
「ああ?」
 ギロリと睨まれ、男たちが途端に縮こまる。
(……な、なんてこと、人身売買は違法ではなかったっ)
 そこがサラには大問題だった。
「あの!」
 思わず鉄の柵を握って、声をかける。
「あ?」
 嫌悪感が滲む声にびくっとした。
 男がようやく、サラのいるテントの方を見た。
 サラは思わず息をのむ。横顔でも端正な顔立ちだと思ってはいたが、彼は驚くほど美しい顔立ちをしていた。
 髪はさらさら、肌は白くなめらかで、装身具は立派で服も上等だった。肩からかけているコートの下は軍服ではなく、上品な深い紺色の貴族衣装で白いシャツもとても清潔だ。
(ただの貴族でなく、とんでもないお方なのでは……?)
 登場した際には迫力で『怖い』と感じたが、しかめ面をしていても、それを感じさせない絶世の美しさに緊張する。
 テントから見える騎士たちも、緊張しているようだった。
 相手が貴族なら、発言の許可を取るべきだったかもしれない。
 そう思って、サラも心臓がきゅぅっと痛くなった時だった。
 テントの入り口のすぐ外側からこちらを見ていた彼が、ゆるゆると目を見開くのが見えた。何やらとても驚いたような顔をしている。
(……何かしら?)
 不思議に思って小首をかしげる。すると彼が、眉間にきゅっと皺を作り直した。
「お前は人間族か。珍しいな」
 子供たちは緊張したみたいに口をつぐんでいた。
 サラは、彼が目をそらすことなく真っすぐ自分だけを見ていることに気圧された。でも――。
『生きるためには“立ち止まらないこと”だ』
 狩人の言葉がよみがえる。
 自分を守れるのは、自分だけ。“生きるため”には、動かなくては。
「あ、あのっ」
「なんだ」
 案外、素直に『聞いていいぞ』的な言葉が返された。
 許可をもらってから発言しなくてはと考えていたサラは、少々気が抜けてしまった。
 騎士たちをはじめ周りにいるみんなが、ちょっと意外そうに美貌の男をうかがっている。
「そこの娘、何か俺に聞きたいことでもあったのでは?」
「えっ? あ、はいっ。その、私はたぶん、ここにいる子供より腕力も全然なくて……労働力になりません。しかも、子供ではないです。そうだと気づかれれば、利用価値はほとんどなく、ぱくりと食べられるか薬にされてしまうんでしょうか?」
「は」
「すみません子供ではないんですっ。でも、やっぱり薬の材料にするのは待ってほしいんですっ」
 男の声を聞いた途端、サラは咄嗟に胸の前で手を組み、必死に懇願する。
「この国の『労働の法律』が人身売買であっても殺処分はないから違法になっていないのだとしたら、私も、できれば死にたくないと思っているんですっ」
 生きるか死ぬかの緊張感で気持ちが逸って、考えがそのまま口から出た。
 するとその直後、場に妙な沈黙が流れた。誰もがサラを見つめている。
「……あの人間族の娘、薬の材料って言ったのか?」
 ひざまずいていた売人たちが、そうひそひそと言葉を交わしだした。
「薬ってなんだ? 俺たちに効く、薬?」
「そんなの作れるわけないのにな。というか生き物を材料にする薬って……人間族はどんな残酷なところなんだ?」
 集まって足を止めていた町の者たちも、野次馬だった別の店々の男たちも、ざわつき始めた。
 その場を、美貌の男が右手を静かに上げて止めた。
「娘、お前はいくつだ」
「じゅ、十七歳です……あと数ヶ月で、十八歳になります」
 周りがややどよめいた。もっと若いと見られていたようだと思って、サラはなんとも言えない気持ちになる。
 男が考えるように顎を撫でた。
「――お前は、ここにいると殺されると思っているのか」
 その獣みたいな彼の目が、真意を探るみたいに細められる。
「は、はい」
 明るいブルーの瞳は、見たことがないほど澄んでいた。美しさと同時に、サラは人には決してない威圧感を覚えて緊張する。
「俺たちは半分獣ではあるが、人は食べない。馬鹿にするな。人間族が食われるとすれば、この国にしかいない獰猛な動物にだろう」
「無知でごめんなさいっ」
 姉たちにいじめられていたことで咄嗟に反応し、サラは怒気を予感して縮こまって先に謝ってしまった。すると男は、バツが悪そうに言葉を続ける。
「別に――知らないのであれば覚えておくといい。ここに生きる肉食動物は人間族のみならず、外から入る木材もすべて好んで食う。それが、人間族がこの土地を好きになれず、ここでは生存率がゼロになるゆえんだ」
「え……」
 ということは、ここから逃げても森を出られないのか。
 サラは静かに震え上がった。目の前を通っていった大きな動物たちにとっても、サラは“動くごはん”みたいなものなのか。
(じゃあ、たまたま森で人身売買の人たちに見つけられたのは、ある意味運がよかった、のかも……)
 呆然と思う。けれど、何もよくない。
「……あ、あの、私、生きたいだけなんです。どうにかここを出る方法はありませんか?」
「出る? この国をか」
 男の雰囲気が怖くなった。
 獣みたいな目がすぅっと細められただけで、場の空気が重くなった。周りにいる町の人たちも怯えている。
「……陛下? いかがされましたか」
 つかまえた男の後ろ手を縛った黒髪の騎士が、無表情ながら、やや緊張を滲ませてそばへ歩み寄る。
「えっ、王様なんですか!?」
 サラはびっくりした。
「こんなに若いのに……」
「それの何が問題だ? 俺は確かに皇帝だ。兄が亡くなり、弟である俺が即位したまでだ」
 見据えられて、サラは彼は王様なのだと実感した。この威圧感、そしてみんなが恐れているのは彼がこの皇国の皇帝だからなのだ。
「俺はこのガドルフ獣人皇国の皇帝、カイル・フェルナンデ・ガドルフだ。この皇国を統べている狼皇族の獣人族だ」
 獣耳と尻尾を見た際、唸り声を含めても狼っぽいと思っていたが、正解だったみたいだ。
「お前の名は?」
「あっ、サ、サラです。……ただの、サラです」
 名乗られたうえ、尋ねられたことにも驚きつつ答えた。
「お前、生きたいだけだと言っていたな」
 彼の靴がこちらに向かってジャリッと音を立てる。
「それでいてつかまった身の上で、皇帝である俺に『出ていかせろ』と頼みたいわけだ?」
 ゆっくりと歩み寄ってくる男、カイルにサラは恐怖を覚える。
 なぜかとても睨まれていた。見守っている騎士たちも困惑した様子だ。
「こ、皇帝陛下。申し上げます、相手はただのひ弱な人間です」
 拘束した男たちを見ている騎士の一人が、そんな声を上げた。
「皇帝陛下」
 止まらないカイルを見て、彼にとても近いテント前で足を止めていた黒髪の騎士が、さらに呼ぶ。
 するとカイルが足を止めた。ゆっくり振り返り、目を見開いて威圧した。
「俺の行動を邪魔するのか、ギルク」
「……いえ、陛下の望むままに」
 その騎士が忠誠を示すように左胸に右手を添え、身を少し下げる。見ていた全員が気圧されたように沈黙した。
「さすがは冷酷な皇帝だ」
 身じろぎする気配と共に、野次馬の誰かがひそひそと言った言葉が聞こえてきた。
(だから、怖がられているの……?)
 と、彼のブルーの目がサラへと戻された。
「お前たちは、俺たちを野蛮だのなんだのと言っている。どうせ、怖いから元の国に帰せ、と言いたいのだろう?」
 心が凍りついたみたいに息ができなくなった。
 元の、とサラは声もなく口で形作って繰り返した。そんな彼女に気づき、カイルがピリピリとした威圧感を解く。
「なんだ、その目は」
 どんな目、と聞かれれば、絶望しているのは自分でもわかった。
 周りの者たちも、気づいたみたいにみんながサラを注目していた。サラは、王に問われたのだから答えなければと思い、深呼吸して、どうにか口を開く。
「か、帰れません」
「なぜだ」
「元の国には戻ってはいけないから、です」
 彼はよくわからなかったのか、怪訝そうに顔をしかめた。
「だが、お前は『出る方法はないか』と言った」
「は、はい。この土地は人間が住めなくて、あらゆる動物にとって獲物の対象だとしたら、私はここでは生きられないからです」
 胸が鉛のようにどんどん重くなって、苦しさから解放されたくて言葉はどんどん早くなった。
 カイルが少し考える。
「迷い込んで、コレにつかまったのでは?」
 コレ、という言葉と共に指を向けられた男たちが、正座をしたまま背をビンッと伸ばした。
 違う、とサラは思った。直後には苦しい気持ちを吐き出すみたいに言っていた。
「私、捨てられた……んです」
「……なんだと?」
「死んでこいと、獣に食べられてしまえと……この国の森に……捨てられました」
 どうにか最後まで言葉にできた時、涙がぽろっとこぼれた。
 ずっと我慢していた十数年の思いが決壊したみたいに、涙がぼたぼたと出て止まらなくなった。
 思い出したら、悲しい。
 自分が、何をしたというのだろう。嗚咽のように言葉が出る。
「家にも、国のどこにも、私の居場所なんてなく」
「どういうことだ」
 声の近さに驚いた。
「答えろ。なぜ、家族はお前を捨てた?」
 ハッと顔を上げるとカイルがすぐそこまで来ていた。
「……か、髪と目の色が、気味が悪いからと……人ではない色で恐ろしいと……」
 答えたら、彼は唸るようにして顔をしかめた。
 怖い。まとっている空気が“王”なのだから、あたり前なのかもしれないけれど。
 周りの者たちもその空気に動揺している。しかしそれを正面から受けて、視線を外せないでいるサラの方が怖かった。
「それで? 何があった」
「い、いいですっ、お時間を取らせますしっ」
「話さないと“交渉”は成立しない」
 不意に聞こえたその言葉に、サラは目を瞬く。
「…………助けて、くださるんですか?」
「話を聞いてから考える。先に言っておくが俺はメリットがない取引はしない。嘘も、ごまかしもなしだ。――話せ」
 言い方は怖いのに、なぜだかどんどん恐怖感は薄れていった。
 じっと見つめ合っていると彼が手を伸ばした。サラは鉄格子の間から入ってきた指にびくっとしたが、カイルは涙を指で受け止めて、拭っただけだった。
「話せば涙も止まると思わないか」
「え……?」
「頼み事をするのなら、話せるようにした方がいいと思うが」
 確かにその通りだ。正論だと思う。
 サラは不思議そうに彼をじっと見つめ返す。彼のことをみんな『冷酷』だと言っていた。そうだと感じる言い方で、彼自身メリットもない手助けはしないと告げてきた。けれど交渉のためにも、彼はまず涙の原因を話せと言った――。
 それはなんだか、優しい対応としか思えない気がする。
 気のせいかもしれない。勘違いかもしれない。でも……今のサラには、それだけで十分だった。
 出会ったばかりの他人に初めて優しくされているのかもしれないと感じただけで、傷つけられ、ため込み続けていた涙が一気にぼろぼろとこぼれ落ちた。
 事情もわからないその人に、話を聞いてほしくなった。
「わ、私、三人の姉がいました。でも、この見た目のせいで邪魔者扱いされてしまって……仲よくなろうとしても、全然、できなくて」
「実の姉なのに、か」
 なぜか彼が舌打ちする。
 びくっとしたら「それで?」と促された。
「家族は、お前にどんな仕打ちをした」
「えっ?」
「……助けを乞うのなら、事情は打ち明けるべきだと思う」
「そ、そうですね、はい」
 戸惑いながらも先を続ける。
「えぇと、掃除をして、洗濯をして『お仕事』をこなしたらその見返りにごはんをもらえました。三人の姉たちが押しつけることには、はいと言って従わなければならなくて……罰で牢にもよく入れられました。お腹が空きすぎると、とても悲しい気持ちになります。でも、ようやく何か食べられた時に、ふっと、生きているんだなと思えて、それなら生きなくちゃと思って」
 人に自分のことを話したことはなくて、言葉がまとまらない。
 それでも話している間、カイルはじっと聞いてくれていた。
 町の人たちが顔を見合わせる。テントの前に立っていた騎士が、何やら観察しながら顎を撫でていた。
「一番上の姉が、婿を取ることになったんです。こんな髪と瞳の色をしている私がいると、邪魔だから、家族から依頼を受けた狩人さんが私をここに……生きていてほしいと、狩人さんは別の国に逃げろと、おっしゃってくださって……」
 いつの間にか周りで聞いていた全員が、ひどく同情していた。
 蚊が鳴くような小さな声だが、聞こえていたみたいだとサラは察した。獣人族は獣と同じくらいに聴覚も優れているようだ。
 野次馬で覗き込んでいた男も、我が子を引き寄せてぎゅっと抱きしめる。
 何をどう話したのかよく覚えてない。思い返し語っていたサラは、気づけば下を向いて口を閉じていた。
「涙は止まったな」
 その時、カイルが動く気配がしてサラはびくっとした。
「あ……」
 目線を上げたら、目の下を彼にきゅっと撫でられた。
「胸の内を話せば涙もいずれ止まるものだ」
 カイルがゆっくりと手を引いていった。まるでとても悲しいことに経験があるように、サラには聞こえた。
「それでお前は『生きたいだけ』と言ったのだな?」
「は、はいっ。もしあなたの役に立つ労働力が一つでも私にあれば、生きられる道を示してくれますかっ?」
 生きるために思考を止めない。
 サラは淑女としてはしたないかしらと悩みつつ、そんな思いをこらえて前のめりで彼に尋ねた。
 彼は“王様”だ。何か術を知っているのなら教えてもらうにはいい相手だ。
 カイルが、口元を手で覆うようにして撫でる。
「……へぇ」
 言いながらゆったりと目を細めた。それはどこか愉快そうだった。
 なんとなくサラは、捕食者の目を思い出した。
(この人、見た目通りすごく怖いタイプの人……みたい)
 優しいと感じたのは、やはり優しさに飢えている自分の勘違いだったのか。
「わかった、それではアピールしてみるといい」
 カイルが鍵に触れ、握った。
 そのままグシャッと音がして鍵は呆気なく壊れてしまい、サラは唖然とした。
 彼は檻の扉を開けると手を差し出してきた。それと同時に、テントの外から誰かが「珍しいな」とつぶやく声がしたが、サラは戸惑いの中にいて聞こえていなかった。
 するとややあって、テントのすぐそこで待っていた黒髪の騎士が告げてきた。
「作法を知らぬようなのでご助言申し上げます。皇帝陛下は『手を』と申し出ております」
「は、はいっ」
 紳士淑女の作法は知っているのだが、彼にそうされたことに困惑していたのだ。皇帝の手に直接触れてしまっていいのかもわからなかった。
 ひとまずここは庶民に見えた方が都合もいい。
 無礼にならないようおずおずと彼の手を借りると、彼がサラの手を軽く握り、引いて外へと出した。
「ギルク、お前たちは子供たちを解放せよ。兄上はこのようなやり方は嫌っておられた」
「はっ」
 命令を受けてすぐ、騎士たちが子供たちの解放に取りかかる。
 拘束されている男たちが「今回の報酬がゼロにっ」と残念そうに呻いていた。
 呆気にとられて眺めていると、手を軽く引かれてハッとした。まだカイルと手をつないだままだったと思い出す。
「それで、アピールしてくれるんだろう?」
 見上げてすぐ、獣みたいなブルーの目とぶつかってびっくりした。
 彼の目は、じっと真っすぐサラを見つめていた。
(本当に怖い人なの……?)
 サラは戸惑う。
 けれど彼が連れてきた騎士たちも、そして全然動かない野次馬たちも、どこか緊張した様子でハラハラと見つめているのは確かだ。
「労働力はそう期待してない。人間族は、我々より弱い」
 はっきり告げられて、サラはしゅんっとした。
 するとすぐカイルの声が追いかけてきた。
「だが――何か役に立ちそうな知識や面白い特技が一つでもあれば、お前がここで生きられるよう手助けする策を提案することはできる」
「お、面白い……?」
「俺はメリットのない取引は“王”として、しない」
 周りの者たちはカイルの言葉を聞いて、なるほどと納得した様子だ。
 ――だとしたら、希望はあるのか。
 サラは、初めて希望で胸が高鳴る感覚というのを知った。
 人間なので、獣人族みたいなパワーの必要な労働力にはならない。
 でも目の前の彼が、少しでも興味を引かれれば、ひとまず生きられる道筋を一つくらいは示してくれるみたいだ。
「な、ならっ、皇帝陛下がご覧になられたことがない面白いものを提示しますっ」
「ほぉ。それは面白そうだ」
 それで?と彼の目が正面から促す。
 その際にサラは、まだつながれたままだった手を彼のもう一つの手でも包み込まれてしまって、気を取られた。
「えぇと私は、まず侍女仕事ができます。これは一種の労働力です」
「そのような手でできるとは思えないが」
 彼がサラの手を見る。先程狂暴なことをしたとは思えないくらい軽く触れられていて、なんだかサラはそわそわと落ち着かない気持ちになってきた。
「ほ、本当ですっ。私、よく動きますっ。そして面白い特技も一つもってますっ」
「それはなんだ?」
 気のないような素振りで彼が言う。
 サラは、これまで口にしたことがなかったから、口から心臓が飛び出すのではないかというくらい緊張した。
 でも、ここに“人間はいない”のだ。
 頭の中で自分に言い聞かせて、大丈夫だと早口で何度も唱える。
 サラをさらった人身売買の男たちだって、金髪だと何か問題があるなんてことは言っていなかった。
「わ、私はっ、人間の中でもたぶんお買い得です! 仕事には真剣に取り組みますし、そばに置いていても面白いといえる、他の人にはない特技をもっていますっ」
 誰かに意見するなんて初めてのことだ。大きな声なんて出したことがなくて、サラは勇気を振り絞ってどうにか声が震えないように主張した。
 だが説得された感じになってくれるかと思いきや、人身売買の男たちも含め、周りからうかがっていたみんなの顔に同情の色が浮かんだ。
「あの娘、自分でお買い得って言ったぞ……」
「なんてことだ、人間族はなんと非道なのか……」
「かわいそうになぁ」
 取り押さえた者たちを監視していた騎士たちも、目頭を押さえて黙り込んでいた。売人たちが気づいて「え、ガチ泣き?」とつぶやいている。
 サラは『交渉』ができるよう、震えそうになる肩をどうにかこらえていた。
 すると見つめ合って数秒、カイルが不意に笑みをもらした。
「ほぉ? それは、役に立つのかな」
 彼が薄く笑ったことに驚いた。どこか意地悪なようでいて、けれど今まで姉たちから向けられたものとはまったく違っている気がした。
「ん?」
 彼が少し首をかしげる。
 そんな声が、柔らかに聞こえてしまってサラは心臓がはねた。
 優しくされているなんて、とんでもない勘違いだ。
 やたら美しい男だからだろうか。サラはパッと視線を下げた。彼が手をつないだままでいるせいでおかしくなりそうだ。
「あのっ、役に立つかは、その、考え方次第と言いますか……」
 嘘もつけないから悩みつつ答えた。
「これは侍女仕事に生かせる特技で……だから先に申告したわけで……えぇと使えるシーンはかなり限定されるのですが、でもっ、普通人間なら使えないことですから、面白いのは保証しますしっ」
 カイルに目を戻して告げた。
 またしてもテントの外が少し騒がしくなる。
「役に立つって言わなきゃだめだよ」
「もっと自分を売り込まないと」
「あの子、話し慣れてないのかねぇ」
 人身売買の男たちもそんな感想を口々に言って、仲間同士目を合わせ、ほろりとした顔になった。
 まさにその通りだ。今までサラは、意見を言えない環境にあった。
(そうよね、これではだめだわっ。自分を“売り込ま”ないとっ)
 言い方一つで、興味を引く度合いも変わるはずだ。
「わ、私は、医療に特化した体質です!」
「何?」
「小さな傷なら自分で治せます!」
 つながれていない方の手を上げて、彼の目の前に見せつけた。
「だから仕事していても手が綺麗なんですっ」
 ここでは、ただの『サラ』としている。ついでにそう説明しておけば、庶民だと納得してもらえることを期待した。
 すると周囲がざわっとした。
「それはすごいな」
「つまり治癒の特殊能力をもっている、ということか?」
「自分を治せるというから特殊体質なんだろう」
「《癒やしの湖》なしで治せるんだな。それは、すごい」
 聞こえてきた単語に、サラは内心首をひねる。
(癒やしの……湖?)
 ちらりと見てみると、彼らは詳細も知らないのに褒めていた。
 自分を治せるという“特技”であるだけなのにウケているのは、予想外の反応だ。簡単な傷を治せるだけでもすごいことなのだろうか。
 魔法ではなく、特殊能力で彼らが納得しているのも変な感じがした。
 獣人族がもっている摩訶不思議な能力が関わっているのだろうか。
(獣の耳とか尻尾とか人化できるみたいだし……それこそ魔法みたいだものね)
 とりあえずは納得しておくことにする。
「あの……?」
 ふと、目の前が静かなことに気づく。上目遣いに見てみたらカイルがやや驚いた感じで、眼前に出されたサラの手を見ていた。
「あっ、ごめんなさい、皇帝陛下のお顔の近くに」
 慌てて手を下げたら、彼がハッとしたように取り繕った。
「いいだろう、面白い」
 面白い、という評価をもらえてサラはほっとした。
「あの、私、祖国に居場所がないので、とにかく別の国に行かなくてはいけないんです。ここで暮らす方法がもしないのでしたら、外に出る方法でもかまいませんので助――」
「その必要はない」
 出ていくことを再び口にした瞬間、握っている彼の手の力が強くなった。
 そのままぐいっと引き寄せられて、サラは驚く。
「要はお前は“生きたい”のだろう。脅かされずに、生きたい、と。つまり出ることが目的ではない。そうだろう?」
 睨みつけるように近くから獣のブルーの瞳にとらえられて、息ができなくなった。
(怒ってる……?)
 こんなに近くに異性を来させたことはないので、次第にどきどきしてきてしまって、サラはこくこくとうなずいた。
「この国でお前が動物に脅かされず、生きられる方法がある」
「は、はい、それならその方法で――」
 カイルが頭を起こし、その美麗な顔で威厳溢れる様子で見下ろしてきた。
「それなら俺の伴侶になるといい」
「…………はい?」
 貴族の娘としてはもう生きられない。
 結婚なんて絶対にできないので一人でたくましく――と思っていたのに、彼の口から出てきた言葉は求婚だった。
(……解決方法の提案、のはずよね?)
 目の前の美しい男が、自分に本気で結婚を申し込むとも思えない。
「おや、見事に固まられてしまいましたね」
 近づいた黒髪の騎士がそう言ったが、サラは引き続きぐるぐると考えてしまっていた。
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