ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
「卑怯者!」

手を上げかけて、多恵はウッと仰け反った。後ろ手に襖を閉める彼の目が、あまりに切実だった。

多恵はじりじりと後ろずさんだ。
とうとう窓際にまで追いつめられ、多恵は瞬きをするのも忘れて玲丞と見合った。

逃げようと思えば逃げられる。それなのに彼の瞳から目が離れない。
自分でも説明のつかぬ感情に涙が差し浮かんだとき、先に均衡を破ったのは玲丞だった。

「多恵──」

「これ以上、近寄らないで」

後ろ手にガラス戸を探った多恵は、いつの間にか玲丞の両腕のなかにいた。

「お願いだから、もうおとなくして」

「いや」

「どうして?」

「どうしても」

「わからないひとだな」

「わからなくてもいいの」

言葉とは裏腹に、抵抗はとうに止んでいる。
懐かしい肌の感覚に、何だかもうどうなってもいいような気分になっていた。

アルコールがややこしい理屈を奪っているのか。追いつめられた境地に自堕落になっているのか。

いや、きっと、現実から救い出してくれるヒーローの出現を、青臭くまだ心の片隅で信じていたからだ。

──自分だけ逃げるつもり?

多恵は己を𠮟咤した。

甘ったれた願望など根絶しなければならない。そのためにはもっと傷ついた方がいいのだ。
恥と痛みを重ねることで、人間は図太くなる。戻る術を失えば、火の海であろうと針の山であろうと前へ進むしかなくなる。

多恵は覚悟の顔を上げると、戸惑う男に向かって目を閉じ自ら唇を差し出した。
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