ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
黒川は廊下に向かって大きく手を打った。

「それより、姫様はどうするつもりです?」

「独りですし、何とかなります」

「結婚は?」

「相手がいません」

ギョロ目がさらに大きく見開かれたとき、すっと襖が開いた。
仲居に何やら耳打ちをしていた黒川が、座卓の蔭で心付けを握らせたのを、多恵は察していた。

「それだけの美貌で男がいないとは、信じられん」

「好きなひとはおりましたけれど、別れました」

「ほう」と、黒川は嬉しげな声を上げ、多恵の体を舐めるように見た。

「その男ももったいないことをする」

銚子を手に席を立つ相手を目の端で追いながら、多恵は体を硬直させた。逃げるわけにはいかない。

黒川は鼻息がかかるほど近くに胡座をかいて手酌をすると、多恵の目の前に盃を差し出した。

「本多君のことですがね……」

一気に乾した盃に、再びなみなみと酒が注がれる。

「私もあれだけの人材を惜しいと思っているんですよ」

「それでは、お考えいただけますか?」

目を上げた多恵を黒川はいきなり引き寄せた。多恵の体が座椅子から滑り落ちるように傾いた。

「伊豆の旅館を手に入れてね」

耳の穴に生温かい息を吹き込むように囁かれ、多恵が目を堅く瞑り体を縮こめたのは、緊張や恥じらいからではない。奥歯を噛みしめなければ、きっと殴ってしまいそうだからだ。

「私も妻を亡くしていますし、姫様が女将を引き受けてくれるのなら、他の人事は任せてもいい」

唇が耳朶に触れた。全身に鳥肌が立った。

もうダメだと体をかわそうとしたとき、ふいに引き寄せる力が緩まって、凧の糸が切れたように多恵は横倒れに崩れた。アッと思ったときにはもう、組み敷かれていた。
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