ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
玲丞の素性を明かされたとき、好きな男が敵方だったからといって正義を蔑ろにするのかと憤り迫る航太に、多恵は言った。

〈私、妊娠しているの。子どもの父親と争うことはできないわ〉

〈へっ?〉

そのときの航太をリプレイしたかのように、玲丞は放心状態で言葉を失っている。棒立ちのまま瞬きさえしない。

まさかショックのあまり息が止まってしまったのではあるまいなと心配になって、航太が声をかけようとしたとき、本当に呼吸を忘れていたのだろう、玲丞は深い潜水から海面に顔を出したように息をすると、そのままソファーへ腰砕けに沈み込んだ。

彼の頭の中で様々なものが竜巻にとらわれた木の葉のように目まぐるしく旋回しているようだ。どこから手をつければよいのか整理がつかないのか、頭を抱えたまま一分ほど経って、ようやく彼は、ハッと顔を上げた。

「多恵は今、どこに?」

「その前に、お話しなければならないことがあります」

航太は一度肩で息を吐いてから続けた。

「姉は幸村本家の当主です。古くさいと思うけど、彼女は、家名を守ることが自分の存在価値だと信じているんです。あのプライドの高い姉が、一族の前に土下座して詫びて誓いました。屋敷もホテルもカンナビも、すべてを失ってしまったけれど、最後に残された家名だけは絶対に捨てないって。姉の実の母は、一族を裏切って家名を捨てていますから」

次の言葉をスムーズに出すために、航太は息継ぎをした。

「つまり、姉は、生まれてくる子どもを、幸村の子として、一人で育ててゆくつもりなんです」

玲丞の顔から興奮の色がサッと引いた。

「オレは何度も姉ちゃんに頼んだんです。大切なものを全部奪われて、藤崎さんを赦せないのはわかるけど、子どものためにもう一度ふたりで話し合ってくれないかって。でも、まったく取り合ってくれません。どうしようもない意地っ張りなんですよ、あのひとは。本当は一人で不安なくせに、強がって平気なふりをしてる。せめて出産まではついていたかったけど、今、行かなければ、せっかくのチャンスを逃してしまうって、姉ちゃんに怒られて……」

「僕にどうしろと?」

発せられた声の予想外の冷たさに、航太は狼狽えた。
真相を告げれば即行動を起こしてくれると踏んでいたのに、玲丞の表情は失望、いや怒り。

「あ……。ですから」

尻すぼみになってゆく意気地を取り返そうと、航太は勢い込んで頭を下げた。

「お願いします! 姉と会ってください!」

「先生、お時間が──」

痺れを切らした声に、玲丞はゆっくりと首を廻して頷いた。それから顔を戻すと、ほんの数秒思案して、不安げな航太の顔を見ずに立ち上がった。

「藤崎さん!」

「コタ君、今、僕が多恵に会っても彼女の気持ちは変えられない。多恵は、僕が僕自身を赦せていないことを知っているから」
< 145 / 154 >

この作品をシェア

pagetop