ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
ようやく玄関まで辿り着き、大きくため息をひとつ、ここまで来ても臆している自分を叱りつけ、なかば自棄っぱちでドアを開けた多恵は、とたんに息を呑んだ。

──カンナビ……。

壁に掲げられた写真は、見紛うこともない、緑の光さす泉だ。

多恵をやさしく迎えてくれた魂の還る場所。もう永遠に辿り着けないと思っていたのに、木漏れ日の温かさ、水の冷たさ、風の匂い、木々のさやめき、小鳥の歌声、生き物たちの気配さえ、そこに感じる。
静かであたたかい、レンズを覗く彼のように。

──男のひとには祟るって言ったのに。

玲丞がカメラを手にしたということは、最愛のひとの死によって時間を止めてしまった彼の心が、再び時を刻み始めたということだ。

それは嬉しいようで、寂しい。
愛が自分のものにならないことはやるせなかったけれど、亡きひとを想い続ける彼だから愛したのも事実。
だから多恵は、彼を死者の花園から連れ出そうとしなかった。

言葉にして、肯定されるのも否定されるのもこわかったし、その瞬間に、彼を失ってしまうと思ったから。

──彼を救ってくれたのはどんな女性だろう。いいひとだといいな。

──ううん、どんな相手だろうと、彼が幸せなら、何より。

胸は痛む。
今でも彼を愛しているから。

ふと空気が流れた。
瞬間、心臓が止まりそうになった。

徐々に近づいてくる靴の音。
聞き間違えるはずがない。いつも待ち侘びて、耳に神経を集中して、胸をときめかせたリズム。

偶然か、もっとも警戒していた事態に、まさか直面してしまうなんて。

身動きできない多恵の横で、靴音が止まった。
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