ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ？

「ＧＭ？」

多恵はハッと顔を上げた。すぐ横で菜々緒が心配そうにこちらを窺っていた。

「ご気分でもお悪いのですか？」

「いいえ……、何か？」

「お忙しいところを申し訳ありませんが、ルームサービスのご依頼がありまして……」

多恵は小首を傾げた。

ルームサービスは、Ｆ＆Ｂマネージャ（料飲部長）の担当だ。と言っても、多恵の弟がアシスタントマネージャと兼務しているのだから、頼りない。

「難しいご注文？」

「いえ、ご注文はクリュッグですが……」

いつもはきはきした菜々緒が言いよどんでいる。

「ＧＭに届けて欲しいと仰っていて……」

「私にですか？」

「はい。お留守だと再三お断りしたのですが、戻ってきてからでよいからと」

なるほどねと、多恵は短く息を吐いた。

きっとまた〈テレビを観てぇ〉の口だろう。客寄せパンダになることは計算のうえでの売り込みだったから、別段不快にもならないけれど、ルームサービスとはいやらしい。

「わかりました。お客様のお部屋は？」

「301号室の藤崎様です」

「フジサキ？」

思わず聞き返した多恵の前に、探るような目があった。

菜々緒は元大手企業役員秘書だけあって、ビジネスマナーのスキルも高く美人で頭の回転も早い。即戦力として即決して雇い入れた頼りになる存在なのだが、ただ、彼女の勘の良さは要注意だ。

「今朝、ＧＭがお出かけになったあとに、銀行の方から急なご紹介がありまして。……お知り合いですか？」

「いえ」

──そんなはずはない。

自分に言い聞かせるように、多恵はきっぱりと否定した。

決して珍しい苗字ではない。それなのに、その名を耳にした瞬間、男の顔がまざまざと甦った。
とうの昔に消し去ったと思っていたのに、いまだに記憶の片鱗にあったのかと、女々しい己を自嘲するしかない。

──きっと疲れているんだ。

多恵は硝子に映った自分の顔を睨むと、真っ赤なルージュを忌々しげに指の背で拭いとった。