ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
「こちらへサインを」

目を合わせようとしない多恵に、切なげな沈黙がしばらく流れ、やがて諦めの吐息とともに玲丞の手が伝票に伸びた。

「仕事が終わったら、会ってくれる?」

「お断りします」

にべもない物言いに、言った方が胸を痛めた。

玲丞は哀しげな目をして、それからもう一度深い溜め息を吐くと、おもむろにワゴンへ伝票ホルダーを戻した。

「サインはそのときにするよ」

交換条件を出すなど彼らしくもない。多恵はムッと玲丞を睨むと、ものも言わずに一礼してさっさとワゴンを押した。

「多恵──」

多恵の肩がビクリと震え、足が止まった。

「何時になっても構わないから。待ってる」

〝多恵〞

その名で呼ぶのは、今はこの世に一人しかいない。

多恵は運搬用エレベータに乗り込むと、どっと脱力したように壁に背をもたれた。
< 29 / 154 >

この作品をシェア

pagetop