ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
そうだった。そのイカれた男と一夜を共にしたのだ。
そのイカれた男が正気に戻る前に(正気の状態がイカれているのか?)、ともかく脱出しなければ。

手早く身支度を調え、いざとドアを開けたときだった。

「おはよう」

口から心臓が飛び出そうになった。

男は肘枕で寝そべって、まだ眠たそうな平和な笑顔を向けている。青空をバックに何と清々しく目映いことだろう。
まるで悪魔祓いのクルスの如く神々しくて、思わず腰が引けてしまった。

「もう、行くんですか?」

「は、はい」

「仕事、がんばって」

「はい、がんばってまいります」

──バカか、私は。

おもちゃの衛兵でもあるまいし、何が〈がんばってまいります〉だ。まるで喜劇だ。

多恵は打ちひしがれた思いで踵を返すと、パンプスを爪先に引っかけたまま、脱兎の如く玄関から飛び出した。
< 34 / 154 >

この作品をシェア

pagetop