ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
「なんだ、元気そうじゃないか。女狐相手にずいぶんと苦戦しているってぇ訊いたのに」

伝法調に訊ねながら喧嘩かぶりの手ぬぐいを払うタカに、盃を口に運んでいた多恵は酒を吹き出しそうになった。
汗を拭う頭は、まさかの坊主。さらにすっぴんの眉毛もない。
実は尼さんなのか、それとも薬の副作用か、いずれにせよ強烈な印象だ。

藤崎は苦笑いして、お茶を濁すように多恵の前に備前の小皿を差し出した。

「この店、メニューがないので」

タカは藤崎をカウンターからシッシと追い払う。

「あたしゃね、自分が食べたい物しか作らない主義なんだ」

あぶりの国産からすみを蕎麦前に出しておいてよく言う。お陰で席が立ちにくくなってしまった。

しかしこうして見ると、建物はボロいがこざっぱりとよく手入れはされている。
カウンターは銀杏の一枚板、器もオリジナルだろうか粋なものを揃えている。

背後に場違いな額が目に入って、多恵は吹き出しそうになった。
豪快かつ繊細な味のある能筆だけれど、〈秋霜烈日・実事求是〉とは……。法曹界でもあるまいし、一体どこへ向かうつもりだろう。

どうぞと勧められるまま卵焼きを口にして、多恵は思わず眉を上げた。これに焼き味噌があれば、と思っていたら、読心術のように香ばしい匂いが目の前に現れた。蕎麦豆腐、鱧の葛落とし、どの肴も旨い。

せいろが出された。多恵はゴクリと唾を呑んだ。鼻梁に膨らむそば粉の香りは、石臼の手挽き。一口呑んだとたんに広がる滋味は、打ち立て十割蕎麦独特の味わいだ。

フードビジネスのコンサルタントを主要としているので、国内外のめぼしい料理店は食べ歩いた。
ソムリエ・きき酒師は無論のこと、コーヒー・紅茶・日本茶、野菜・フルーツ、パン・菓子、調味料・だし、etc、食に関する資格は多々有している。
老舗温泉旅館の賄い食で育ったのだから、元から味にはうるさい。
それがまさかこんな場末の蕎麦屋で、舌を唸らせられるとは思ってもみなかった。

半分ほど食べ進み、多恵はふと視線を感じて隣に顔を向けた。藤崎がにこにこと笑いながら、体裁ぶらない食べっぷりを見つめている。

「ゴホッ」

「大丈夫ですか?」

慌てて背中を叩く手を、多恵は下心を拒絶するように払った。
< 43 / 154 >

この作品をシェア

pagetop