ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
「母さんはさ──。父さんの妻になったわけじゃない。ゆきむらの女将になったわけでもない。幸村家の人身御供になったんだ」

「何てことを言うの」

多恵は誰かに聞かれてはいなかったかと、辺りを窺った。

航太は不貞腐れたようにアプローチのベンチに腰を降ろし、背中を丸めて長い溜め息を吐いた。

「母さんはよくやってきたと思うよ。だけど、古いひとたちはどうしても母さんを幸村家の使用人として見るんだ。姫様は継母との折り合いが悪くて村を出たけど、必ず戻ってくるって信じているのさ。佐武さんだって、伊佐山さんだってそうだ。他人の目なんか気にしなけりゃいいのに、母さんも卑屈なんだよなぁ。今でも姉ちゃんのことを〝姫様〞って言いかけることがある」

静枝は多恵が生まれた時にはすでにゆきむらで働いていた。祖父母が亡くなる前に寿退社したので、お姉さんのような仲居がいたなというくらい、うっすらとしか覚えていない。

当時、多恵は幸村家のお姫様として君臨していたから、静枝はその頃の面影をまだ引き摺っているのだろう。

「つまり、母さんを縛っているのは、幸村宗一郎氏と永和さんの亡霊なんだ。母さんが育った養護院の支援者で、親代わりになって夜学まで通わせてくれた宗一郎氏と、赤ん坊を取り上げられて家を追ん出され、自殺しようとまで追い詰められていた母さんのために、向こうの家に乗り込んで息子を奪還してくれた永和さんには、血のつながり以上の恩義があるのさ。もちろん、子持ちのバツイチ女に生活の保障をしてくれた父さんにも感謝していると思うよ」

「あんたねぇ」

ふたりの間に愛があったのかはわからない。

子どもの頃は、母を裏切った不純な関係としか考えられなかったけれど、大人の事情を鑑みれば、父はゆきむらの女将が早急に必要だったし、静枝も息子のために安定した生活が必要だったのだろう。

確かに双方、打算はあった。けれど、息子が言うか?

「母さんだけじゃない。父さんだって、永和さんの亡霊に縛られていたんだ」

父は優しいだけが取り柄と言われたひとだった。世間にどんな悪口雑言を浴びせられようと、言い訳もせずただ静かに微笑んでいたことを、多恵は覚えている。

そうして父は、寡黙に淡々と永和の夢を実現することで、彼女への愛を貫き通した。
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