ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
多恵はいかんいかんと首を振った。
自分の役目は、今夜の主役たちのために夏のディナータイムを優雅に演出して差し上げる裏方だ。

多恵は背筋をシャンと伸ばして深呼吸をした。
奥のオープンエアのガーデンテラスに木蓮の影が揺れている。少し風が出てきたみたいだ。

「グラスはバカラ、食器はデボラシアーズかぁ。料理が負けなきゃいいけど〜」

背後から近づく靴音に、聞かせるような声でカオルは言う。

「失礼します」

カオルは、口を押さえ、わざとらしく罰の悪い顔をした。

多恵は、機械的に抜栓したコルクを玲丞に差し出した。
テイスティングする口元にふと懐かしさが甦る。
そんな感傷もカオルの薄ら笑いが見事に打ち砕いてくれた。

「ねえねえ」

グラスに黄金色のワインを静かに注ぎながら、「はい」と、多恵は応じた。

「あそこのテーブル、谷垣七生でしょう? 芥川賞作家の」

多恵は滴をトーションで押さえ、にっこりと微笑みを返した。

「あいにくですが、お答えいたしかねます」

「それじゃあ」と、カオルは顎先をしゃくった。

「その奥にいる陰気な男は写真家の須藤拓也で、派手な若作りは女優の永野笙子」

多恵は再びにっこりと微笑んで、野次馬根性丸出しのカオルにノーコメントを貫いた。

「口が硬いのねぇ? ねぇ、リョーちゃん」

意味深な笑みに、多恵はもう我慢ならないと一礼してその場をとっとと立ち去った。

──何がリョーちゃんよ。むかつく女!

そんな挑発に乗るものかと呟いている時点で、すでに煽られている。

「多恵さん」

呼び止められて、多恵は我に返った。品のいい老夫婦が、娘を心配するように見上げていた。
そう、客は彼らだけではない。危うくホテルマンとしての矜持を忘れるところだった。

「失礼いたしました、気がつきませんで」

空になりかけた二つのグラスに冷酒を注ぐ。
今夜は真野鶴磨三割五分大吟醸。華やかな香りとまろやかな飲み口は、老夫婦の雰囲気と重なる。

「ずいぶんと板についてきたようですね」

着物愛好家の文壇の大御所は、今夜もロマンスグレーによく合う銀鼠の夏塩沢を粋に着こなしていた。

「先生方のご指導の賜です」

「お小さい頃から大女将のもとで女将としての修行をされたのですもの、当然ですよ」

こちらのご婦人は、薄青の絣縞の長井縮に紺の羅織の八寸帯。長く連れ添う夫婦は自然と似てくると言うけれど、そのとおりだと多恵は思う。
< 73 / 154 >

この作品をシェア

pagetop