ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
谷垣は、旅館ゆきむらの時代からもう五十年近い常連客で、ポラリスと幸村と多恵の関係を知っている数少ない人物だ。

彼の何冊かの小説は、この岬で誕生した。
若い頃にベストセラーを出してから、まったく書けなくなった小説家が、チヤホヤされていた頃に豪遊した老舗旅館に無一文で訪れて、亭主との交流をきっかけに立ち直ってゆく物語は、彼の代表作となった。
言わずもがな亭主のモデルは祖父だ。

ノブレス・オブリージュ。
富める者には奉仕・慈善に献身する義務がある。若い才能を援助するのも然り。と言うのが、曽祖父から祖父へ継がれた家訓だった。

教育・芸術・芸能・スポーツ・商い、彼らが遺した〝縁〞という宝物が、いまポラリスを支えてくれている。
それも多恵の代で、数々の遺産と同様潰えてしまうだろう。

「厳しい方でしたからねぇ。茶道、華道、日舞に三味線、おおよそ子どもらしくない習い事を、多恵さんに手ほどきされて、芸者にでもするつもりかと宗一郎さんがぼやいてらした。そう言う宗一郎さんも、書道と武道でしたか……」

「どれも中途半端で」

多恵を幸村家当主として、そして旅館ゆきむらの立派な女将として育てることが、祖父母の生きがいだった。
叶わぬ夢だったけれど。

「あなた、少しお痩せになった?」

眉をひそめる夫人に、多恵は頬に手をやって微笑んだ。

「ダイエットの成果でしょうか」

「まあ、ダイエットだなんて不健康な。痩せている方が美しいなんて、悪しき風潮ですよ」

気のいい夫人のお説教が始まるのを察して、谷垣が嘴を入れた。

「そう言えば、二ヶ月ほど前に牧村君から連絡があって、多恵さんが企画したマクロなんとかという健康食プランを絶賛していましたよ。体も頭も心も軽くなったと言ってね」

牧村もやはり古くからの馴染み客で、今では巨匠と呼ばれる映画監督だ。仕事に詰まるとぶらりとやってきて、ふらりと去って行く。

「よろしければ先生方もぜひお試しください」

「そうだなぁ。のんびりと粗食を愉しむのも一興かもしれないなぁ」

「あなたはのんびりしすぎです」

遅筆で有名な先生は、これはまずいと話を逸らした。

「しかしいつもながら修司君の料理はいいねぇ。また一年、寿命が延びた気がするよ」

「ありがとうございます。グラン・シェフも歓びます。あとでご挨拶に伺わせますので──」

そのとき、一つ空けた隣の席で、華やかな笑い声が上がった。
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