ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ?
「でも、彼の親父さんは厳しいひとでね、家業を継ぐことが既定路線だったから、決して口には出さなかったわ。それが、大学卒業間近、彼の作品が尊敬していたフランスのフォトグラファーの目に止まって、直々弟子入りの誘いがきたの。もちろんみんな猛反対した。麻里奈との結婚も決まっていたし。だけど、彼女が彼の背中を押したの」
見てきたようにお家事情に詳しい。ずいぶん昔からの付き合いなのか。
「優しい女だったのよ。玲とは幼稚園の頃からの幼馴染でね。淑やかで、穏やかで、とても聞き上手。あなたとは大違いね」
カオルの笑顔に、多恵も左様ですかと笑顔で返した。
あなたのようなデリカシーのない人間に優しさを失わずに接せられるのだから、聖母マリアのように寛容で慈悲深いひとなのでしょう。
ゲストでなければとっくにやり返している。
「結局、玲は親父さんとはわかり合えないままフランスに渡って、アシスタントとして放浪のような撮影旅行を続けた。三年後、ようやく向こうでの生活の目処がついたって、麻里奈を迎えるために日本に帰ってきたの……」
カオルは呪うように天を見上げた。
「十年前の……雪の朝だった。空港に玲を迎えに行く途中、麻里奈が運転する車が、スリップしたトラックと正面衝突したの。即死だったそうよ」
多恵は目を閉じた。雪がすべてを消して行く。そう言って玲丞が怯えていたのは、このためか。
瞼の裏に写真の人物が現れた。
あのとき、思わず頬を緩ませ見とれてしまったのは、被写体への愛が溢れていたからだ。
愛する者を突然失った哀しみは、多恵にもわかる。それが幸せの絶頂での出来事ならなおさら、落ちた奈落の底は深く、体を二つに引き裂かれるような心の痛みに耐えきれなかっただろう。己を責め、他人を恨み、神を呪い、やがて、喪失感に思考が停止する。
「それきり玲は二度とカメラを持たなくなった。彼はまだあの白い雪のなかに立ち尽くしているのよ。雪の向こうから麻里奈が笑顔で手を振るのを信じて」
今さら真相を聞いてどうにかなるものでもないのに、何で最後まで耳を傾けてしまったのだろう。
彼は男も女も愛せるのではなくて、どうでもよかったのだ。寂しさに体を温めあうことがあっても、心にぽっかり開いてしまった穴を埋めることは、誰にもできないと虚しく悟っていたから。
「美しいふたりを永遠にスノードームの中に閉じ込めておきたかったのに……」
我知らず漏れた呟きに、多恵が怪訝な顔をするのを見て、カオルは逃れるように百日紅を指差した。
「一つもらってもいいかしら?」
多恵はツールバッグから切り鋏を取り出して、きれいなところを選んで枝を一房二房切った。
「お部屋にフラワーベースをお届けしましょうか?」
「ありがとう」
花を手にしたカオルが、少女のように微笑むのを見て、麻里奈の死を受け入れていないのは彼の方ではないかと、多恵は思った。
見てきたようにお家事情に詳しい。ずいぶん昔からの付き合いなのか。
「優しい女だったのよ。玲とは幼稚園の頃からの幼馴染でね。淑やかで、穏やかで、とても聞き上手。あなたとは大違いね」
カオルの笑顔に、多恵も左様ですかと笑顔で返した。
あなたのようなデリカシーのない人間に優しさを失わずに接せられるのだから、聖母マリアのように寛容で慈悲深いひとなのでしょう。
ゲストでなければとっくにやり返している。
「結局、玲は親父さんとはわかり合えないままフランスに渡って、アシスタントとして放浪のような撮影旅行を続けた。三年後、ようやく向こうでの生活の目処がついたって、麻里奈を迎えるために日本に帰ってきたの……」
カオルは呪うように天を見上げた。
「十年前の……雪の朝だった。空港に玲を迎えに行く途中、麻里奈が運転する車が、スリップしたトラックと正面衝突したの。即死だったそうよ」
多恵は目を閉じた。雪がすべてを消して行く。そう言って玲丞が怯えていたのは、このためか。
瞼の裏に写真の人物が現れた。
あのとき、思わず頬を緩ませ見とれてしまったのは、被写体への愛が溢れていたからだ。
愛する者を突然失った哀しみは、多恵にもわかる。それが幸せの絶頂での出来事ならなおさら、落ちた奈落の底は深く、体を二つに引き裂かれるような心の痛みに耐えきれなかっただろう。己を責め、他人を恨み、神を呪い、やがて、喪失感に思考が停止する。
「それきり玲は二度とカメラを持たなくなった。彼はまだあの白い雪のなかに立ち尽くしているのよ。雪の向こうから麻里奈が笑顔で手を振るのを信じて」
今さら真相を聞いてどうにかなるものでもないのに、何で最後まで耳を傾けてしまったのだろう。
彼は男も女も愛せるのではなくて、どうでもよかったのだ。寂しさに体を温めあうことがあっても、心にぽっかり開いてしまった穴を埋めることは、誰にもできないと虚しく悟っていたから。
「美しいふたりを永遠にスノードームの中に閉じ込めておきたかったのに……」
我知らず漏れた呟きに、多恵が怪訝な顔をするのを見て、カオルは逃れるように百日紅を指差した。
「一つもらってもいいかしら?」
多恵はツールバッグから切り鋏を取り出して、きれいなところを選んで枝を一房二房切った。
「お部屋にフラワーベースをお届けしましょうか?」
「ありがとう」
花を手にしたカオルが、少女のように微笑むのを見て、麻里奈の死を受け入れていないのは彼の方ではないかと、多恵は思った。