愚かなキミの、ひと目惚れ事情。【完】
瀬名川のその言葉に、帰ろうとしていた足が止まった。
そして彼は「今となってはただの過去だけど」と付け加えながら、ポツリポツリと自身のことを語った。
瀬名川という名前は彼の母親の姓で、父親を婿養子として迎え入れて以来はとても順調だったこと。
が、彼を産んでから母親は納得のいく字が書けなくなったこと。
それに悩んで、悩んで、地の果てまで陥った母親は……家を去り、家族を捨て、今はもう、この世にはいないのだという。
周りはみんな、決して彼のせいではないと慰められたものの、そんな言葉を真に受けて立ち直れるなど到底無理な話で、それ以来瀬名川は墨の匂いさえ受けつけなくなったこと。
「じいさんを含め、瀬名川の名前を持つ親戚中が『時間が経てば解決する』だなんて思ってるみたいだけど、ほんとバカだよね」
「……」
「たかだか紙に文字を書くくらいのことで大袈裟なんだよ、みんな。そんなモノに憑りつかれて命を捨てる人なんて特に無理。それが自分の母親だったってことが余計に無理」
「……」
「俺にとって書道に感謝しているとしたら、この家に産まれてきて金銭的に甘やかされていることと、それから」
「……瀬名川」
「葉ちゃん、キミに出会えたことくらいかなあ。俺は書道が大嫌いだけど、キミに出会えたきっかけがソレだから、まあありがとうくらいは言うかもね」
「……っ」