初めてを捧げたのは、人気俳優になった初恋の人でした
 いつもなら、派遣社員である紫遥とは違い、定時で帰ることなど滅多にないはずだったが、今日は仕事が早く終わったのだろうか。急いで電車に乗り込んだのか、この寒さにも関わらず篠原の額にはうっすら汗が滲んでいた。

 篠原は「いやー急行乗りたくてさ、猛ダッシュしちゃったよ」と話しながら、黒いリュックサックを荷物棚に乗せ、紫遥の隣にあるつり革を掴んだ。
 
 紫遥が降りる駅までは、このまま三十分ほど電車に揺られていなければならない。篠原はどこで降りるんだろう、と考えるが、そもそも上司とはいえまともに話したことなどない相手だ。どこに住んでいるかなんて知る由もない。

 「そういえば、もう体調は大丈夫なのか?」

 「はい、昨日ゆっくり休んだのでもう平気です」

 「よかった。道で仮屋が倒れたって連絡が入った時はびっくりしたよ。町田さん、だっけ?いい人に助けてもらってよかったな」
 
 いつの間にか紫遥は貧血で倒れており、それを町田が見つけて会社に連絡したという体になっていたらしい。

 嘘をつき慣れていない紫遥は「ええ、まあ」と曖昧な返事をして、話題を変えようと、会社で助けて貰った時の礼を言った。
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