意地悪で不愛想で気まぐれだけど大好きなあなたに、おとぎ話が終わっても解けない魔法を
放課後になり、リーゼは学校のお手洗いで念入りに髪を整えた。
人ごみや風で多少は乱れるだろうけれど、せっかくのお出かけなのだから崩れた髪型で会いたくない。
(家ではいつも、ぼさぼさの髪を見られているけれど……)
それでも今日だけはきっちりと整えなければならない。なんせ、告白する日なのだから。
(最近のノクターンはいつも忙しそうなのに、早く仕事を終わらせても大丈夫なのかな?)
心配する一方で、自分のために時間を作ってくれたことが嬉しい。
ふわふわと浮かれた気持ちで街の中央広場に着いたが、見回してみてもノクターンの姿がなかった。
(早く着いてしまったものね)
ここまで速足で来たから当然だろう。逸る気持ちを抑え、ひたすら足を動かしてきたのだ。
(カフェで時間を潰そう)
近くの小さな通りに手ごろな値段のカフェがある。テラスもあるからノクターンが通りかかれば見つかるだろう。
大広場から離れて通りに入ると、地面に膝を突いて蹲っている老人を見つけた。
「だ、大丈夫ですか?!」
「ちょっと足の傷が障ったみたいだ。大事ではないから気にしないでくれたまえ」
駆け寄って体を支えると、老人は弱々しく微笑えんでみせた。
「優しいね。少しだけじっとしていたらまた歩けるようになるから大丈夫だよ」
中流階級の人間なのだろうか。寛いだ服装だが、きっちりと纏められた髪型や着こなしに品がある。
鳶色の髪には白髪が交じり、それが柔らかな印象を与えた。
「しかし……あのベンチまでお連れしますね」
「済まないね。予定があるだろうに、助けてくれてありがとう」
「いいえ、待ち合わせをしているところなので気にしないでください」
二人は大広場のベンチに腰かけた。温かな春の風が心地よく、あちこちのベンチで仕事を終えた街の住民たちが憩いの時間を過ごしている。
「私は昔、ストレーシス王国の騎士だったんだよ。その時にできた傷が未だに痛むんだ」
「そうだったんですね」
ストレーシス国は王政が崩壊してから十七年経つ。
王国で騎士や傭兵をしていた者は軍に入隊するか、田舎で農業を営んでいる者が多いと聞く。
リーゼにとって騎士とはお姫様や魔法使いのように縁遠い存在だ。だから元騎士の老人の話は興味深かった。
「おじいさんは魔法を見たことがありますか?」
「ああ。うんと小さな時分に、建国祭の式典で見たことがあるよ。種もしかけもない、美しく神秘的な奇跡さ」
魔法を見たのはそれきりだったな、と老人は懐かしむように呟いた。
「わあっ! 魔法って本当にあったんですね」
「そうだよ。いまではすっかりおとぎ話の世界の出来事となってしまったけどね。昔はそんな奇跡が当たり前のようにあったんだ」
目を輝かせて話を聞くリーゼに、老人は優しく微笑む。
「そうだ、老人の暇つぶしに付き合ってくれないかい?」
「もちろんです。ちょうど時間をつぶす場所を探していましたから」
「良かった、良かった。チェスを持っているから一緒にやろう」
老人は鞄の中から折り畳み式の木でできたチェス盤を取り出した。留め具を外すと中には駒が入っており、白木の駒と焦げ茶色の駒に分かれている。
「お嬢さんはどちらがいいかい?」
「では、白木の方を私の駒にします」
チェスはノクターンに教えてもらった。故郷にいる頃、雨が降ると本を読んでくれたりチェスの相手をしてくれたのだ。
経験者であるノクターンにはなかなか勝てず、初めの頃は悔しがって何回も泣いた。それでもノクターンは手加減してくれなかった。
いま思えば、大人げない奴だと思う。
「……ふむ。いい作戦をお持ちのようだね。追い込まれてしまった」
「手厳しい幼馴染が教えてくれたので得意になりました。学校では誰にも負けませんよ」
「そうかい。将来名手になりそうだ」
しかし余裕を見せた直後から老人の快進撃が始まり、リーゼは王の駒をとられてしまった。
「詰みだね」
「あ~。惨敗しました……」
「それにしても、君は本当にチェスが上手いね。途中で何度も手に汗を握ったよ」
老人はコロコロと笑う。そしてふと、手元にある白木の王の駒に視線を落とした。
「駒は可哀想なものだよ。どれほど王を守りたくても制約があるし、打ち手の命令には逆らえないから」
「そう……ですね」
過去の自分の話をしているのだろうか。老人の声音はひどく寂しそうだった。
「おっと、いかんな。年寄りになると暗い話ばかりするね。――おや、待ち人が来たのではないかな?」
「――あ」
顔を上げると、シダーウッドの香りが風に乗って届く。
老人の視線の先を見ると、そこには紺色の軍服を着たノクターンが立っている。
「おやおや、待ち人さんが不機嫌そうだね。この老人にお嬢さんを盗られたと思っているようだ。早く行ってあげなさい」
「あの人はいつもあんな表情なんです。意地悪で不愛想で気まぐれで、困った人なんですよ」
「ほほう。しかしお嬢さんにとって大切な人なんだね」
「――ええ、とっても」
はにかむリーゼに、老人は満足げに頷く。
「お大事になさってください」
「ありがとう。お嬢さんが楽しい時間を過ごせますように」
リーゼが立ち上がって駆け寄ると、ノクターンは少しだけ表情を和らげた。そして視線を老人に向けると、無言のまま頭を下げる。
「うむ。今日は久しぶりにいい夢を見られそうだ」
老人はそう呟き、片手を振って返した。
「健やかに育っているようでなによりです」
掌の中にある白木の王の駒と騎士の駒を両手で包み、祈るように額に当てる。
「あなたの采配がいいからなのでしょうね」
かつて毎日のようにチェスの相手をしていた人物の姿を思い浮かべ、密かに涙を浮かべた。
人ごみや風で多少は乱れるだろうけれど、せっかくのお出かけなのだから崩れた髪型で会いたくない。
(家ではいつも、ぼさぼさの髪を見られているけれど……)
それでも今日だけはきっちりと整えなければならない。なんせ、告白する日なのだから。
(最近のノクターンはいつも忙しそうなのに、早く仕事を終わらせても大丈夫なのかな?)
心配する一方で、自分のために時間を作ってくれたことが嬉しい。
ふわふわと浮かれた気持ちで街の中央広場に着いたが、見回してみてもノクターンの姿がなかった。
(早く着いてしまったものね)
ここまで速足で来たから当然だろう。逸る気持ちを抑え、ひたすら足を動かしてきたのだ。
(カフェで時間を潰そう)
近くの小さな通りに手ごろな値段のカフェがある。テラスもあるからノクターンが通りかかれば見つかるだろう。
大広場から離れて通りに入ると、地面に膝を突いて蹲っている老人を見つけた。
「だ、大丈夫ですか?!」
「ちょっと足の傷が障ったみたいだ。大事ではないから気にしないでくれたまえ」
駆け寄って体を支えると、老人は弱々しく微笑えんでみせた。
「優しいね。少しだけじっとしていたらまた歩けるようになるから大丈夫だよ」
中流階級の人間なのだろうか。寛いだ服装だが、きっちりと纏められた髪型や着こなしに品がある。
鳶色の髪には白髪が交じり、それが柔らかな印象を与えた。
「しかし……あのベンチまでお連れしますね」
「済まないね。予定があるだろうに、助けてくれてありがとう」
「いいえ、待ち合わせをしているところなので気にしないでください」
二人は大広場のベンチに腰かけた。温かな春の風が心地よく、あちこちのベンチで仕事を終えた街の住民たちが憩いの時間を過ごしている。
「私は昔、ストレーシス王国の騎士だったんだよ。その時にできた傷が未だに痛むんだ」
「そうだったんですね」
ストレーシス国は王政が崩壊してから十七年経つ。
王国で騎士や傭兵をしていた者は軍に入隊するか、田舎で農業を営んでいる者が多いと聞く。
リーゼにとって騎士とはお姫様や魔法使いのように縁遠い存在だ。だから元騎士の老人の話は興味深かった。
「おじいさんは魔法を見たことがありますか?」
「ああ。うんと小さな時分に、建国祭の式典で見たことがあるよ。種もしかけもない、美しく神秘的な奇跡さ」
魔法を見たのはそれきりだったな、と老人は懐かしむように呟いた。
「わあっ! 魔法って本当にあったんですね」
「そうだよ。いまではすっかりおとぎ話の世界の出来事となってしまったけどね。昔はそんな奇跡が当たり前のようにあったんだ」
目を輝かせて話を聞くリーゼに、老人は優しく微笑む。
「そうだ、老人の暇つぶしに付き合ってくれないかい?」
「もちろんです。ちょうど時間をつぶす場所を探していましたから」
「良かった、良かった。チェスを持っているから一緒にやろう」
老人は鞄の中から折り畳み式の木でできたチェス盤を取り出した。留め具を外すと中には駒が入っており、白木の駒と焦げ茶色の駒に分かれている。
「お嬢さんはどちらがいいかい?」
「では、白木の方を私の駒にします」
チェスはノクターンに教えてもらった。故郷にいる頃、雨が降ると本を読んでくれたりチェスの相手をしてくれたのだ。
経験者であるノクターンにはなかなか勝てず、初めの頃は悔しがって何回も泣いた。それでもノクターンは手加減してくれなかった。
いま思えば、大人げない奴だと思う。
「……ふむ。いい作戦をお持ちのようだね。追い込まれてしまった」
「手厳しい幼馴染が教えてくれたので得意になりました。学校では誰にも負けませんよ」
「そうかい。将来名手になりそうだ」
しかし余裕を見せた直後から老人の快進撃が始まり、リーゼは王の駒をとられてしまった。
「詰みだね」
「あ~。惨敗しました……」
「それにしても、君は本当にチェスが上手いね。途中で何度も手に汗を握ったよ」
老人はコロコロと笑う。そしてふと、手元にある白木の王の駒に視線を落とした。
「駒は可哀想なものだよ。どれほど王を守りたくても制約があるし、打ち手の命令には逆らえないから」
「そう……ですね」
過去の自分の話をしているのだろうか。老人の声音はひどく寂しそうだった。
「おっと、いかんな。年寄りになると暗い話ばかりするね。――おや、待ち人が来たのではないかな?」
「――あ」
顔を上げると、シダーウッドの香りが風に乗って届く。
老人の視線の先を見ると、そこには紺色の軍服を着たノクターンが立っている。
「おやおや、待ち人さんが不機嫌そうだね。この老人にお嬢さんを盗られたと思っているようだ。早く行ってあげなさい」
「あの人はいつもあんな表情なんです。意地悪で不愛想で気まぐれで、困った人なんですよ」
「ほほう。しかしお嬢さんにとって大切な人なんだね」
「――ええ、とっても」
はにかむリーゼに、老人は満足げに頷く。
「お大事になさってください」
「ありがとう。お嬢さんが楽しい時間を過ごせますように」
リーゼが立ち上がって駆け寄ると、ノクターンは少しだけ表情を和らげた。そして視線を老人に向けると、無言のまま頭を下げる。
「うむ。今日は久しぶりにいい夢を見られそうだ」
老人はそう呟き、片手を振って返した。
「健やかに育っているようでなによりです」
掌の中にある白木の王の駒と騎士の駒を両手で包み、祈るように額に当てる。
「あなたの采配がいいからなのでしょうね」
かつて毎日のようにチェスの相手をしていた人物の姿を思い浮かべ、密かに涙を浮かべた。