旗をふれ!

「位置についてー ヨーイ……」

 パンッ。

 スターターが鳴ると同時に、走者よりも先に黄色い声援が飛び交った。

 放送席も、最終種目とあって気合いのこもった解説が繰り広げられた。

 六人の男子たちが力強く飛び出して行く。
 
 私はトラックのコーナーで旗を振っていた。

「頑張れー」
「行け行けーーー」

 走り去るたびに風が起こり、そのスピードに旗が揺れる。
 スタート地点では、壮絶なバトンパスが繰り広げられていた。
 スピードはそのままに飛び込んでいく選手が、今にもぶつかりそうになる光景は目を背けそうになる。
 だけどそれもしばらくすると落ち着いてくる。
 なぜなら、一位と二位以下で、圧倒的な差がついてしまっているからだ。

 今のところ、一位、二位を紅組が走る。
 遅れて白組が三位。
 一位の選手がバトンパスを終えて走り出した時、他の選手はまだバトン待ちをしている。
 その間に、余裕で駆け抜けていく、紅組の一位。

 もう勝負は決まったと言わんばかりに、白組の応援席からは、徐々に声が落ちていく。
 隣で私と同じように旗を振る女子団員の顔も曇り始めていた。

 そんな様子に、胸ばかりが早鳴る。
 声を出さずにはいられなかった。

「みんな、諦めないで。まだ終わってないよ。最後まで応援をやめないで。旗を振って!」

 応援席にまで届く声で、そう叫んだ。
 応援席側の女子団員が、ポンポンではなく、団旗を振ってエールを叫ぶ。
 そこに、黄色い声援が合流する。

 私も声を張り上げた。
 旗を振った。
 大きく、大きく。

「あ、抜いた!」

 二位と三位が入れ替わった。

「大丈夫。イケる。まだまだ戦える」

 だけど、一位が紅組のままアンカーにバトンが渡された。

 一番に飛び出していったのは、一ノ瀬君だった。

 そのしばらく後に、星君も飛び出した。

 アンカーはトラック一周。
 この一周で、勝負が決する。

「紅組、速いです。白組、追い付くでしょうか」

 放送席からの疑問文に応えるように、私は叫ぶ。

「追いつく。絶対追いつく。頑張れ、星君」

 だけど、そんな声援も空しく、一ノ瀬君との距離は縮まらない。

 一ノ瀬君は、必死に声を張り上げる私の目の前を、容赦ない涼しい顔で走り去っていった。
 彼はもう、あと四分の一でゴールをするところまで来ていた。

 その時だった。


「きゃああーーー」


 黄色い声援が、金切り声に変わった。

 その瞬間を、私も見た。

 一ノ瀬君が、転倒したのだ。

 コーナーを曲がり切れなかったのか、ずざざざざっと砂埃を立てながらトラックの外に投げ出された。


__いっ……


 浅い呼吸と共に、小さな悲鳴に似た声が口から出た。


「紅組アンカー転倒しました。その間に、白組が猛攻を始めます」

 その放送に、周りの空気が一気に切り替わった。

「星くーん、頑張れー」
「星ーー、行けーー」

 運動場が、星君コールでいっぱいになった。
 星君が私の目の前を、風を切るように駆け抜ける。
 星君が巻き起こした風が、すっかり止まってしまった私の旗を微かに揺らした。

「白組、逆転しました。あとはゴールに向かうだけです」

 星君が、一ノ瀬君のそばを駆け抜ける。


 そして__


「白組、一位でゴールです」


 白組の応援席で、黄色い叫びが「きゃーーーっ」と湧いた。
 リレーの待機場所でも、男子たちがどよめく。
 星君がその中心で、顔をくしゃっとさせている。

 その間にも紅組、白組の残りの選手たちがゴールしていく。
 それらは、一瞬に近い出来事だった。

 一ノ瀬君は、まだその場に倒れていた。
 その顔が、歪んでいるように、私には見えた。
 その表情に、私の胸がブルブルっと震えた。

 旗を持つ両手に、ぐっと力をこめた。
 そして、高く掲げた。
 大きく息を吸うと、ありえないほど高い空に向かって、私は叫んだ。


「フレー フレー あーかーぐーみ……」


 その声に合わせて、高く掲げた旗を、大きく振った。

「フレッフレッ あかぐみ フレッフレッあかぐみ オーーーー」

 ざわめきが消えた運動場に、私の声が広がっていく。
 会場の視線が、すべて私に注がれているのは明らかだった。
 だけど私は構わず続けた。
 声を張り上げ、力いっぱい旗を振った。
 振り続けた。

 すると、


「頑張れー、一ノ瀬」


 どこからか、そう聞こえてきた。
 そして広がっていく。


「一ノ瀬君、頑張れー」
「最後まで頑張れー」
「もう少し、もう少し」

 一ノ瀬君は立ち上がると、足を引きずりながら、一歩ずつゴールに足を運んでいた。
 膝からは血が出ていた。
 腕にも痛々しい傷が見えた。
 目を覆いたくなるほどの負傷に、目を覆う代わりに涙が湧いて出た。
 そして、声も。


「頑張れっ、一ノ瀬君」


 私以外の団員達も、声を上げながら旗を持った。
 私たちの向かいのコーナーでは、紅組の団旗が翻る。
 女子たちの黄色い声援と、男子たちの空気を震わせるような太い声が、運動場で混ざりあって空気を揺する。

 その声援の中で、紅白団旗が、広いグラウンドで何度も翻る。
 
 一ノ瀬君がゴールに近づくと、ゴールテープが準備された。
 それを、一ノ瀬君はふわりと切った。
 ゴールの瞬間、割れんばかりの拍手が鳴った。

 赤の鉢巻きを巻いた男子たちが一ノ瀬君に駆け寄った。
 一ノ瀬君は支えられながらトラックの中心まで来ると、がくんと座り込んだ。

 私は旗を投げ出して走り出した。
 応援席に用意されていた救急セットを手に取ると、私はその勢いのまま一ノ瀬君のもとに走った。

 周りを取り囲む男子たちを押しのけて、私は一ノ瀬君のそばにひざまずいた。

「大丈夫?」
「な、なんだよ」

 怪訝な表情と声で、一ノ瀬君は私を迎えた。

「早く手当てしないと」
「こんなの、大したことない」
「冗談でしょ? こんなに血流して」
「余計なことすんな」
「余計なことって、応急処置しないと。私一応、保健委員だし」
「そうじゃなくて……」

 そこで、一ノ瀬君はバツの悪そうな顔で言った。

「あんな大勢に応援されてゴールなんて、ダサいだろ。そんな青春みたいなの、恥ず過ぎ。超惨めじゃん」

 不満そうに言う一ノ瀬君に、私はぼそりと伝えた。


「……エール交換」

「は?」

「一ノ瀬君だって、応援、くれたから」

「え?」

「まだお礼が言えてなかったよね」


 私は救急箱を整えてから姿勢を正し、一ノ瀬君の方を改めて見てから言った。


「応援、ありがとう。一ノ瀬君の応援、めっちゃカッコよかった」


 そう言うと、私は勢いよく立ち上がって、一ノ瀬君の目の前に手を差し出した。
 一ノ瀬君は私の手をじっと睨みつけていた。
 だけどしばらくしてから、はあと小さくため息をついて、私の手を取った。

 一ノ瀬君の手は、砂でざらついていた。
 対面式の時にはわからなかったけど、その手は大きくて、少しごつごつしていた。

 その手をグイと引っ張ると、一ノ瀬君も勢いよく立ち上がった。
 その瞬間、割れんばかりの拍手が湧いた。

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