花咲くように 微笑んで
 「大学3年生の時、ゼミで色々な施設に研修に行かせていただきました。精神科病棟や刑務所なども。分かっていたつもりでしたが、現場は想像以上でした。叫び声や手足を拘束された人達の異様な雰囲気、今でも頭から離れません。案内してくれた職員の方は、まず何よりも自分達のメンタルを日々大切にしていますとお話してくれました。そんな研修の合間に、犯罪心理学の講義があったんです。いつものように、教授の話に合わせてテキストのページをめくろうとした時、ふと1ページ目に書かれていた言葉が目に入ったんです。今までめくったことのなかった最初のページに書かれた言葉。それは、ドイツの哲学者、ニーチェの言葉でした」

 (ニーチェの言葉、犯罪心理学…)

 そこまで考えて、颯真は思いついた。

 「ひょっとして、善悪の彼岸?」

 コクリと菜乃花が頷く。

 ユングやフロイト、アドラーといった心理学の権威にも影響を与えたと言われるニーチェが『善悪の彼岸』という著書に残した言葉。
 それは…

 『汝が深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を等しく覗き返しているのだ』

 怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返しているのだ、という意味合いで、犯人と対峙する際の警告とも言える言葉だった。

 「その言葉を読んだ途端、凍りつきました。時間がぴたりと止まったように、何も考えられなくなって。目に焼き付いた恐怖が蘇ってきて、どうしようもなく怖くなりました。そして私は、心理学の道から逃げ出したんです」

 そう言うと、菜乃花はぎゅっと両手を握りしめる。
 その手がかすかに震えているのに気づき、颯真はそっと自分の手を重ねた。

 「君は逃げ出したんじゃない」

 え…?と菜乃花が小さく呟いて顔を上げる。

 「君は心理士として人を癒やし、救いたかったんだろう?でも今、心理士ではなくても、君は人を癒やして救っている。たくさんの子ども達や母親を笑顔にし、幸せにしている。そして俺にも…。君は俺を癒やして救ってくれた」

 強さを宿した瞳でじっと見つめられ、菜乃花は何も考えられなくなる。

 「大切なのは、心理士になることじゃない。人を思いやり、痛みに寄り添い、心を尽くすこと。君が今していることこそが、一番大切なことなんだ。資格とか職業なんか関係ない。君は君自身で立派に志を果たしているんだ」

 菜乃花の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 心が震え、痛みが消え、身体中が温かくなる。

 ずっと頭の中にこびりついていた影がぽろぽろと剥がれ落ち、何年も抱えていた暗い気持ちが軽くなる。

 しゃくり上げて静かに泣き続ける菜乃花を、颯真はそっと抱きしめていた。
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