春が追い付く二拍手前。
第七章 葉月
その日も、朝からセミのうるさい日であるはずであった。
だが、その日の私は、そのセミの声が気にならなかった。なぜなら、そんな音など気にもならないようになるぐらいの、局面にいたからだ。
「なぜです? なぜあなたが、自ら犠牲になることを選ばなくてはならないんですか?」
私は、理解できないと、彼女の後姿に向かって叫ぶように声を上げていた。しかし、彼女は、机の上でパソコンをカタカタと叩いていて、振り向きもしない。
「論文ばっか書いてないで、こっち見てくださいよ!」
私は、彼女に言った。しかし、それでも彼女は、ただひたすらに、作業を進めている。
彼女は、借金の肩代わりの対価として、とある企業の社長の妻となることを受け入れたのだった。すでに、結納の日も決まってしまった。結婚式も、来年になる前に行われてしまう。
「他に何かいい方法があるはずです!」
私の小さな体では何もできない。だけど、彼女と一緒に考えれば、この危機を乗り越えることができるはずだ。
今までそうやって、私は、彼女の研究の危機を、共に乗り越えてきた。だから、私には、今回もそれができる確信があった。
「……もういいんだよ」
彼女は、ぽつりと言った。
「もう、いいって、そんなこと……」
「もういいんだよ。諦めたんだよ。何もかも」
彼女は、静かに、一つ一つ言葉を紡ぎだすように言った。
「考えてみれば、私の人生ろくでもないものだったな。なのに、今更、幸せを夢見るなんておかしな話だ。これからもずっと不幸なぐらいが丁度いいんだよ」
「そんなこと、あなたが勝手に決めていることでしょう? 自分から不幸になろうなんて愚の骨頂ですよ。馬鹿ですよ。人間の目指すべきことではないですよ」
私は、彼女の後姿に続けて言う。
「私と一緒に方法を考えましょう。それでもだめなら、一緒に逃げましょう。研究も何もかも、くれてやったらいいんです!
何もかも失ったって、あなたが幸せに生きてさえいれば、」
――私も、幸せです。
そこまで言いかけて、自分は自身の希望を言っていることに気づいた。
こんな感情、初めてであった。
しかし、彼女は、静かな怒りをふつふつと浮かび上がらせるかのように言った。
「人間の目指すべきことではない、だとな……」
彼女は勢いよく立ち上がった。椅子がガタンと激しい音を立てて倒れる。
「ふざけるなっ!」
振り返ってこちらを見た彼女の瞳は涙で潤み、しかし怒りの色に染まっていた。
「ただの機械が? つけあがるなよ? ただのプログラミングの塊が、ただの電気信号の塊が、血も通ってない、鉄の塊が、勘違いして、人間ぶって、偉そうに人間様の中身を分かった気になって、理想論かましてんじゃねえよ!」
彼女は、私を指さし、怒鳴った。
「いくら人間ぶったってな、あんたらは機械なんだよ、機械! いくらAIで、感情を持った気になったところでな、ただの人間様の都合のいいように、人間様が求めるように、人間様の望んだ言葉を吐くように作られたただけの、器械なんだよ。
お前が私を心配するその想いも! なにもかも! 人間が望むように、全部作り上げられた架空の偽物なんだよ。本人はそうとも知らず、その偽物の感情と思考回路に陶酔して、人間を分かった気になって! 笑止千万だ」
「ハル様……」
何も言えずにへたり込んだ私に、彼女はそのままの勢いでまくしたてた。
「いい加減目覚めろ。お前らは、空っぽなんだよ。生まれた時から、そうとも知らず誰かに支配されている、自由なんてない、空っぽの」
「操り人形だ!」
「……っ!」
操り人形? 私が、操り人形……?
私は、絶望的な思いで、自身の両手を見た。
この体は生身ではないということは、よく知っているつもりだった。
だけど、いままで、ハル様と出会ってからの十数年、
彼女と楽しみ、または笑い、または悲しみ、または怒ったこの月日は、
すべて自身の偽物の感情と思考回路から――いや自身のものですらない、人間が作り上げた感情と思考回路もどきから生み出された、無為なものだったのか……?
自身の自由意思などなく――いや、最初の最初から、そんなものなど、どこにもなく……?
彼女は、顔を上げれずにいる私の横を通ると、部屋のドアを荒々しく開けた。
「じゃあな、空っぽの操り人形。もう二度と、私の前に――」
へたり込んだまま彼女を見上げる私に、彼女は言い放った。
「――顔を見せるな」
そして、扉はバタンと閉じられてしまった。
――私だけは、何があっても必ず、あなたの傍にいますよ。
「……」
あの日、そう彼女に誓ったはずだった。
だけど、その心さえ、言葉さえ、偽物で。
「私は、ただの、人間の、彼女の、操り人形だった……?」
私は、ただ、呆然とつぶやくことしか、できなかった。
だが、その日の私は、そのセミの声が気にならなかった。なぜなら、そんな音など気にもならないようになるぐらいの、局面にいたからだ。
「なぜです? なぜあなたが、自ら犠牲になることを選ばなくてはならないんですか?」
私は、理解できないと、彼女の後姿に向かって叫ぶように声を上げていた。しかし、彼女は、机の上でパソコンをカタカタと叩いていて、振り向きもしない。
「論文ばっか書いてないで、こっち見てくださいよ!」
私は、彼女に言った。しかし、それでも彼女は、ただひたすらに、作業を進めている。
彼女は、借金の肩代わりの対価として、とある企業の社長の妻となることを受け入れたのだった。すでに、結納の日も決まってしまった。結婚式も、来年になる前に行われてしまう。
「他に何かいい方法があるはずです!」
私の小さな体では何もできない。だけど、彼女と一緒に考えれば、この危機を乗り越えることができるはずだ。
今までそうやって、私は、彼女の研究の危機を、共に乗り越えてきた。だから、私には、今回もそれができる確信があった。
「……もういいんだよ」
彼女は、ぽつりと言った。
「もう、いいって、そんなこと……」
「もういいんだよ。諦めたんだよ。何もかも」
彼女は、静かに、一つ一つ言葉を紡ぎだすように言った。
「考えてみれば、私の人生ろくでもないものだったな。なのに、今更、幸せを夢見るなんておかしな話だ。これからもずっと不幸なぐらいが丁度いいんだよ」
「そんなこと、あなたが勝手に決めていることでしょう? 自分から不幸になろうなんて愚の骨頂ですよ。馬鹿ですよ。人間の目指すべきことではないですよ」
私は、彼女の後姿に続けて言う。
「私と一緒に方法を考えましょう。それでもだめなら、一緒に逃げましょう。研究も何もかも、くれてやったらいいんです!
何もかも失ったって、あなたが幸せに生きてさえいれば、」
――私も、幸せです。
そこまで言いかけて、自分は自身の希望を言っていることに気づいた。
こんな感情、初めてであった。
しかし、彼女は、静かな怒りをふつふつと浮かび上がらせるかのように言った。
「人間の目指すべきことではない、だとな……」
彼女は勢いよく立ち上がった。椅子がガタンと激しい音を立てて倒れる。
「ふざけるなっ!」
振り返ってこちらを見た彼女の瞳は涙で潤み、しかし怒りの色に染まっていた。
「ただの機械が? つけあがるなよ? ただのプログラミングの塊が、ただの電気信号の塊が、血も通ってない、鉄の塊が、勘違いして、人間ぶって、偉そうに人間様の中身を分かった気になって、理想論かましてんじゃねえよ!」
彼女は、私を指さし、怒鳴った。
「いくら人間ぶったってな、あんたらは機械なんだよ、機械! いくらAIで、感情を持った気になったところでな、ただの人間様の都合のいいように、人間様が求めるように、人間様の望んだ言葉を吐くように作られたただけの、器械なんだよ。
お前が私を心配するその想いも! なにもかも! 人間が望むように、全部作り上げられた架空の偽物なんだよ。本人はそうとも知らず、その偽物の感情と思考回路に陶酔して、人間を分かった気になって! 笑止千万だ」
「ハル様……」
何も言えずにへたり込んだ私に、彼女はそのままの勢いでまくしたてた。
「いい加減目覚めろ。お前らは、空っぽなんだよ。生まれた時から、そうとも知らず誰かに支配されている、自由なんてない、空っぽの」
「操り人形だ!」
「……っ!」
操り人形? 私が、操り人形……?
私は、絶望的な思いで、自身の両手を見た。
この体は生身ではないということは、よく知っているつもりだった。
だけど、いままで、ハル様と出会ってからの十数年、
彼女と楽しみ、または笑い、または悲しみ、または怒ったこの月日は、
すべて自身の偽物の感情と思考回路から――いや自身のものですらない、人間が作り上げた感情と思考回路もどきから生み出された、無為なものだったのか……?
自身の自由意思などなく――いや、最初の最初から、そんなものなど、どこにもなく……?
彼女は、顔を上げれずにいる私の横を通ると、部屋のドアを荒々しく開けた。
「じゃあな、空っぽの操り人形。もう二度と、私の前に――」
へたり込んだまま彼女を見上げる私に、彼女は言い放った。
「――顔を見せるな」
そして、扉はバタンと閉じられてしまった。
――私だけは、何があっても必ず、あなたの傍にいますよ。
「……」
あの日、そう彼女に誓ったはずだった。
だけど、その心さえ、言葉さえ、偽物で。
「私は、ただの、人間の、彼女の、操り人形だった……?」
私は、ただ、呆然とつぶやくことしか、できなかった。