春が追い付く二拍手前。
第九章 神無月
その日の朝は、道端の草に露が降りていた。
彼女と別れてから、既に三年が経っていた。
「フユちゃん、なにあれ、草がキラキラしてる」
「露ですよ」
「つゆ?」
私は、肩の上から、柾の娘――桜さんに言う。
「空気中の水蒸気が、露点以下の温度になると、物体に付着して水として現れる現象ですよ」
「すいひょーき? ……ろてん?」
「水蒸気ですよ。空気にはある程度、見えない粒子となった水が含まれているんです。露点っていうのは……」
「……おい、フユ。幼稚園児にそれはないだろ……」
柾は目を回しそうになってる桜さんの隣で、ボソッとつぶやいた。
「あのなあ、フユ。幼稚園児には、もっとロマンのある教え方をしろ。多少虚構が混ざってもいいから」
「柾、こういうことは頭の柔らかいうちに、しっかりと教えておいた方がいいんですよ。そうじゃないと、人間は、いつか魔法少女になれるとか、背中に羽が生えるとか、ありえない将来を期待するようになってしまうんです。
そして、二次元にしか恋ができないだとか、異世界に転生したいだとか、いい年越えても虚構の中から、現実の世界へと住み替えができない輩が生まれるんです」
「いや、そういうのは、そういうことが原因じゃないとは思うんだが……」
私は、あの日から、柾とその家族と共に暮らすことになった。今は、彼女の地元を離れ、遠く離れた都会で暮らしていた。
一歩外に出れば、所狭しとたてられた建物の波。さらに外へと出れば、絶えず周りを行き交う人の波。
初めての都会の暮らしは、当初は何が何だか訳がわからず、それらの波に何とか流されまいと、もがくだけだった。
だけど恐ろしいもので、今やそんな生活にも慣れ、まるで空気のように、それらの環境を、それが元から当たり前だったかのように、受け入れるようになっていた。
そして私は、柾と、その家族と共にある生活も、今や、それが元からそうであったかのように、受け入れるようになっていた。
だけど、私はやはり、ハル様のことを思わない日はなかった。
ちゃんと朝起きられているだろうか。
ちゃんと身だしなみをしているだろうか。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
ちゃんと揉め事を起こさないで、人と話せているだろうか。
ちゃんと寝ているだろうか。
……ちゃんと幸せに過ごしているだろうか。
柾たちといる間の、ふとした瞬間―特に桜さんが、何かをするたびに、私は彼女のことを思った。
ころころと子供らしく表情を変える桜さんは、彼女とはまったく違って。でも、そのことが、余計に彼女のことを思い出させた。
そして、彼女も道が違えば、こうだったのだろうか、と思うことも増えた。
「さあ、フユちゃん、ごはんですよ~」
桜さんは道端の草を摘むと、口の前に差し出してきた。私は、柾のじとっとした目線に、小さくため息をつくと、ウサギらしい演技を諦めてした。
「おいしいですね」
もぐもぐと、食べるふりをすると、柾は満足そうににやにやと笑ったので、何だかムカついた。
「じゃあ、お腹も一杯になったし、帰りましょうか」
「ええ~、もうお散歩おわりなの?」
桜さんが不服の目で柾を見上げると、柾も苦笑しつつ、私に首肯した。
「そろそろ日が沈むし、外も冷えてきたしね。いつまでも道草食ってたら、風邪ひくから」
「私は、道草、本当に食わされてたんですけどね……」
私がぼそりと言うと、柾は聞いてないふりをして、「さあ、行こうか」と桜さんの手を引いた。
――平和な一日だった。
私は、桜さんの肩の上で夕日を見つつ、そう思った。
そして、明日も、そういう平和な日で、これからもずっとそれが続いていくと、
それが自然の、森羅万象の摂理だと、
そう思わずとも、思ってしまっていた。
――だから、
日常が壊れる時は、いつだって
前触れなんか来てくれない事を、
私は、すっかりと忘れてしまっていたのだった。
彼女と別れてから、既に三年が経っていた。
「フユちゃん、なにあれ、草がキラキラしてる」
「露ですよ」
「つゆ?」
私は、肩の上から、柾の娘――桜さんに言う。
「空気中の水蒸気が、露点以下の温度になると、物体に付着して水として現れる現象ですよ」
「すいひょーき? ……ろてん?」
「水蒸気ですよ。空気にはある程度、見えない粒子となった水が含まれているんです。露点っていうのは……」
「……おい、フユ。幼稚園児にそれはないだろ……」
柾は目を回しそうになってる桜さんの隣で、ボソッとつぶやいた。
「あのなあ、フユ。幼稚園児には、もっとロマンのある教え方をしろ。多少虚構が混ざってもいいから」
「柾、こういうことは頭の柔らかいうちに、しっかりと教えておいた方がいいんですよ。そうじゃないと、人間は、いつか魔法少女になれるとか、背中に羽が生えるとか、ありえない将来を期待するようになってしまうんです。
そして、二次元にしか恋ができないだとか、異世界に転生したいだとか、いい年越えても虚構の中から、現実の世界へと住み替えができない輩が生まれるんです」
「いや、そういうのは、そういうことが原因じゃないとは思うんだが……」
私は、あの日から、柾とその家族と共に暮らすことになった。今は、彼女の地元を離れ、遠く離れた都会で暮らしていた。
一歩外に出れば、所狭しとたてられた建物の波。さらに外へと出れば、絶えず周りを行き交う人の波。
初めての都会の暮らしは、当初は何が何だか訳がわからず、それらの波に何とか流されまいと、もがくだけだった。
だけど恐ろしいもので、今やそんな生活にも慣れ、まるで空気のように、それらの環境を、それが元から当たり前だったかのように、受け入れるようになっていた。
そして私は、柾と、その家族と共にある生活も、今や、それが元からそうであったかのように、受け入れるようになっていた。
だけど、私はやはり、ハル様のことを思わない日はなかった。
ちゃんと朝起きられているだろうか。
ちゃんと身だしなみをしているだろうか。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
ちゃんと揉め事を起こさないで、人と話せているだろうか。
ちゃんと寝ているだろうか。
……ちゃんと幸せに過ごしているだろうか。
柾たちといる間の、ふとした瞬間―特に桜さんが、何かをするたびに、私は彼女のことを思った。
ころころと子供らしく表情を変える桜さんは、彼女とはまったく違って。でも、そのことが、余計に彼女のことを思い出させた。
そして、彼女も道が違えば、こうだったのだろうか、と思うことも増えた。
「さあ、フユちゃん、ごはんですよ~」
桜さんは道端の草を摘むと、口の前に差し出してきた。私は、柾のじとっとした目線に、小さくため息をつくと、ウサギらしい演技を諦めてした。
「おいしいですね」
もぐもぐと、食べるふりをすると、柾は満足そうににやにやと笑ったので、何だかムカついた。
「じゃあ、お腹も一杯になったし、帰りましょうか」
「ええ~、もうお散歩おわりなの?」
桜さんが不服の目で柾を見上げると、柾も苦笑しつつ、私に首肯した。
「そろそろ日が沈むし、外も冷えてきたしね。いつまでも道草食ってたら、風邪ひくから」
「私は、道草、本当に食わされてたんですけどね……」
私がぼそりと言うと、柾は聞いてないふりをして、「さあ、行こうか」と桜さんの手を引いた。
――平和な一日だった。
私は、桜さんの肩の上で夕日を見つつ、そう思った。
そして、明日も、そういう平和な日で、これからもずっとそれが続いていくと、
それが自然の、森羅万象の摂理だと、
そう思わずとも、思ってしまっていた。
――だから、
日常が壊れる時は、いつだって
前触れなんか来てくれない事を、
私は、すっかりと忘れてしまっていたのだった。