春が追い付く二拍手前。

第十二章 睦月

「幼稚園、行きたくない」


 明日から冬休みが明ける日。桜さんは私を抱いたまま、ゴロゴロと床の上を転がって、駄々をこねていた。

「ずっとフユちゃんと遊んでるぅ。めんどくさいから、やだあ」

 「こまったわね」と頬に手を当てるもみ路さんに、私は、「まあ、明日になれば気が変わりますよ」と苦笑いしながら言った。


 あの日以来、不安な年末を過ごしたが、あの男はもうやってくることはなかった。
 柾は、職場の人にも事情を話して、できるだけ、電話を家に掛けてきてくれた。だけど、あの日以来、逆に気味の悪いぐらいに、あの男からの音沙汰はなかった。


「にしても、去年も、あっという間に一年が過ぎましたね」
「ほんとねえ。年を取るたびに、毎日があっという間ねえ。なのに、体は確実に老けてきて、いやんなっちゃう。小じわも目立ってきたし、いつの間にか、白髪まで生えてきたのよ~」

 「いえいえ、まだまだお美しいですよ」と言えば、「やだねえ、お世辞ばっかりうまくなっちゃってえ」とぺしりとはたかれた。


 老ける、か。


 機械である私には、寿命などないし、老ける、ということもない。たとえ、経年劣化があろうとも、その部分を取り換えれば元通りだ。

 そこまで考えてから、私は急にその場に一人、取り残された気分になった。
 いつかは、柾ももみ路さんも、私より先にいなくなってしまうだろう。桜さんや赤ん坊の(しゅう)さんも、いつかは大人になって、いつかは年老いて、いなくなってしまう。
 自身も何らかの影響で、いつか完全に機能停止になる可能性はないとは言いきれない。
 けれども、普通に考えると、いつかはきっと、皆、私を置いていなくなってしまうだろう。


 いつかは、一人ぼっちになってしまう……?


 ただただ終わりのない期間を、幾度もの別れの寂しさを抱え、自分だけが延々と生きていく。
 それは、とても恐ろしいことのような気がした。


――だけど、


 ふと私は、彼女を失った後の、自分のことを思い出し、思った。
 彼女との思い出を(いだ)きつつ、彼女が知らぬ時間を、彼女が出会えなかった人々と共に歩んでいく。
 彼女が見られなかった、これからを、未来を歩んでいける。
 彼女の代わりに、私が――。


 それはとても、寂しくも、幸せな事のように思えた。


 ……と、


――ピンポーン


 チャイムが鳴った。

 もみ路さんと私は身構えた。あの日から来客などなかった。久しぶりの来客は、そうでなくとも、あの男が来た可能性を予期させたからだ。
 果たして、モニターに映っていたのは、あの男だった。

「しつこいですね……」

 もみ路さんが震えながら、柾の電話番号をスマートフォンに表示させた時だった。
 何やら、ドアノブから、ウィーン、かちゃかちゃと謎の音がして――
 ドアが、開いた。

「は……?」

 恐怖でスマートフォンを落としてしまうもみ路さん。私はその前に、守るかのように立ちふさがった。

――あの野郎、ピッキングしやがった……。

 玄関に入ってきた男のその手には何やら、一般的な針金ではなく、電動ドライバーのような器械が握られていた。
 どうやらこのままでは私を手に入れられないと踏んだ男は、この一週間の間に、頭脳と技術の無駄遣いの結晶を作り上げ、動員したらしい。
 こういうところが、ハル様に遺伝したのか。きっと彼女は、その事実を否定したがるだろうが、私の経験上はそう認めざるを得ず、それが尚更癪に障った。

「だから、オートロックマンションに住めと、あれほど……」

 私が、腹ただしげにつぶやくと、もみ路さんが震えた声で言った。

「いつか、実家に帰るから、そこまでお金をかけていられないって言ってたのが、仇になっちゃったわね……柾さんのバカ、甲斐性なし」
「ほんとそうです……って、もみ路さん、今はそれどころじゃないです! 警察!」

 私が呑気に頷きかけて……我に返って、叫んだ時だった。


「すまなかった……!」


 土下座した。

 誰がとは、目の前の男が、玄関で、である。


「許してくれ、とは言わない。ただ、すまなかった……」

 男が、泣いていた。やつれた皺だらけの顔を、さらにくしゃくしゃにして、泣いていた。

「……」

 私は急なことに、理解が追い付かず、固まった。そんな私の前で、男は頭を下げ続ける。

「ハルを、ほっておいたことも! ハルをあんな奴の所へ行かせたことも! 全部、私のせいだ。馬鹿な私がやってしまった、取り返しのつかないことだ。……私がハルを殺したようなもんだ」
「……」

 男は、ごめんなさい、ごめんなさいと、子供のように何度も繰り返した。
 大の男が、泣きじゃくるその姿は、ただただ哀れで、私ですらうっかりと、同情を禁じえなかった。
 だが、この男は、信用できない。今更、何を言っているのか。

「泣き落としですか? えらく舐められたものですね」

 しかし、男にはそんな悪態も聞こえていない。ただただ、泣き続けていた。
 ただただ、声を上げて泣き続けていた。


「……」
 噓泣き……?
 ……いや、それにしては、哀しすぎる泣き方……


 色々な人の泣き方を見てきた訳ではないから、そういう泣き方であると確実な判断はできない。ただ、自身の主観としては、とても哀しい、泣き方だった。
 何を思えば、こんなにも哀しい涙を流すことになるのか。
 それは、ハル様への、後悔と、謝罪の気持ち――?

 この男は、ハル様のことを、ほんの少しだけでも、愛おしく思っていたということ――?


「……フユちゃん」

 もみ路さんが、おろおろとして、私に話しかけた。彼女も、どう対処したらいいのか、迷っているのだろう。
 私も、どうしたらいいのか、どうしたら正しいのか、すぐには分からなかった。ただ、そうこうしている間に、外の廊下には、この騒ぎを聞きつけ、人が現れ始めていた。

「……」

 ここで取るべき行動としては、とりあえず警察を呼んで、この男に帰ってもらうことだろう。後のことは、柾に相談してから、判断すればいい。それが正解のはずである。
 だが、私は、そうすると、何だか二度とこの男に会えない気がして――いや、それはそれでいいのだが、この男の哀しい泣き方の真意が、この男のハル様への気持ちが、二度と問いただせない気がして――。
 普通のAIなら、絶対に選ばないだろう回答。柾に、絶対に最も怒られるであろう回答。


――不正解を、あえて選ぶことにした。


「……もみ路さん、柾に電話をかけてください」
「……ええ」

 もみ路さんは、落としていたスマートフォンを拾うと、画面を触った。

「この男と話をしてきます。そう柾に伝えます」
「え…!? ちょっと?! フユちゃん?!」

 もみ路さんが、仰天している。私は、悪いと思いながらも、強い調子で頼んだ。

「いいから、よろしくお願いします」
「……」

 もみ路さんは黙って、呼出音のなる電話を、不安そうに私に渡した。
 慌てた様子で、電話に出た柾にも、申し訳ないと思いながら、私は口を開いた。

「柾、あの男が、家に来ました。玄関の床で泣いて、土下座して謝っているんです。『私がハルを殺したようなもんだ』って」
『……土下座…? ……演技に決まっているだろう、そんなもの。というか、玄関の床?! お前、まさか泣き落とされて、ドアを開けたのか?』

「……いいえ、開けたというか、こじ開けられて入ってきたんですが」
『はあ?!』

「自作の器械で、ピッキングして入ってきました」
『おまっ……、なんでさっさと警察を呼ばない!?』

 柾が、素っ頓狂な声を上げた。あまりにも大声だったため、耳がキーンとする。まあ、そう思うのは、一般的な思考としては、当たり前だろう。

「まあまあ、ちょっと、落ち着いて話を聞いてください、柾」
『ピッキングされて、家に侵入してこられて落ち着いていられるか、馬鹿! さっさと警察を呼べ! 俺もすぐそっちへ行く!』
「……呼びません」

 私は一つ呼吸をすると、思い切ったように言った。

「これから、私は、この男が何を考えてここへ来たのか、今まで何を考えて生きてきたのか、この男と話しに行きます」
『……はあっ?!』

 これまた柾が、大声を上げたので、私は慌てて電話から耳を離した。しかし、言いたいことは言わなければと、私は声をもっと大きくして、言った。

「この男が今まで、ハル様に、何を思って生きてきたのか、聞いてみたくなりました。この機会を逃すと、もう聞けない気がして。だから、私はこの男についていきます」
『おまっ…何を考えてんだ?! 借金が原因で、あの社長(おとこ)(もと)で、操り人形にされているそいつを、信用なんか一ミリもだってできる訳がないだろう?!』

「私もその通りだと思います。だけど」

 私は、手を握り締めると、言った。

「このまま何も知らないままだと私は、一生後悔する気がして」
『……』

「ハル様が、ずっと知らなかったこと。ハル様が、知りたくても聞けなかったこと。せめて私が知ってあげなくては……。
彼女が一ミリも愛されていなかった、幸せになる事を一ミリも望まれていなかった
……そんなことはなかったと、せめてこの世界の中で、私だけでも知ってあげないと」

 私は、ぐっと腹に力を込めて言った。

「私は、」

「彼女は……彼女の一生は、『とても可哀そうだったね』の一言で、終わらせたくないんです。」
『……』


 柾は、しばらく何も言わず、黙っていた。だけど、ふうと息をつく音が聞こえて、その後で静かに言った。

『……分かった。ただし、その男の元へは行かないよな』

 元へ、と言うのは、一緒に住むという事だろう。

「いいえ、もちろん。私の家は、ここだけです』

 すると、柾は、強い調子で言った。

『必ず、帰って来いよ、必ず。……約束だ。男と男の約束だからな。絶対に破るなよ』
「男と男って、前にも言いましたが、私に性別はないのですが……」
『お前な……こんな時に、そういう細かい所を気にするなよ』

 柾は、「変なところばっか、ハルに似やがって」とぼやいた。だが、私にとって、彼女に似ていると言われるのは、大歓迎であった。

「いいですよ。約束。男と男の、約束です」

 私は、ほほ笑むと頷いた。柾も『仕方ない』といったふうに、あきらめ半分で「ああ」と頷いた。

『……何かおかしいと思ったら、すぐに迎えに行く。GPS、ちゃんとバレないように、オンにしておけよ。ハルが体内に後付けた物だから、その男は知らないはずだ』
「ええ……」

『後……お前に何かあったら、泣く人間がいることを、絶対に忘れるなよ』
「ええ……」

 私は、不安そうに見つめているもみ路さんと桜さんを見て、幸せな心地でほほ笑む。


「もみ路さん、今回の件ですが、私はこの男と……」

 電話を切り、これからの次第を伝えようとした私に、桜さんがとてとてと、駆け寄ってきた。

「フユちゃん、どっか行っちゃうの?」

 泣きそうな顔で、私を抱きしめる桜さんに、私は安心させるかのようにほほ笑んだ。

「大丈夫、少しご用事ができただけですから。それを終えたらきっと帰ってきますから」
「ほんとに?」
「ほんとに」

「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとですよ」

 すると、桜さんは、しばらく小さく「うう……」と泣きそうに唸っていた。
 しかし、ごしごしと、目を腕でこすると、言った。

「うん、桜、我慢する。だから、ほんとに帰ってきてよ」
「はい」

「嘘ついたら、ハリセンボン飲ますからね」
「針、千本ですよ」
「ちっちゃいとこ、うるさい」
「はいはい」

 桜さんが、ぷうと頬を膨らませるのに、私は苦笑しつつ、思う。


――本当に成長したな。


 私は、愛おしい心地で、彼女の頭を撫でた。


 私は、こんなにも必要とされて、
 私は、こんなにも必要として、
 本当に、幸せ、です。

 あなたたちがくれた、この愛おしい毎日は、
 あなたたちが、守ってくれた。
 今度は、きっと私も一緒に守りますから。

 だから、今回だけは、わがままを聞いてください。
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