春が追い付く二拍手前。
 私は、あの写真立をしっかりと体に括り付けると、外に出た。
 外は、雪が降り始めていた。気温は低いが、私にはデータとして以外、何も感じられない。だから、何も問題はなかった。

 私は、歩いて歩いて、歩き続けた。彼女との思い出の、あの場所を目指して、ただただ、歩き続けた。


「……」
 石段をやっとのことで登りきる。
 彼女が私を肩に乗せて参拝してくれるようになってからは、こんな苦労を感じたことはなかった。そのことが、余計寂しさを感じさせて――だけど、私はそんな気持ちを振り払うかのように、キッと前を向いた。


 そこには、その場所が、相も変わらず、ただ静かにあった。


「当然ですが、夜中に参拝者なんて、いませんね。私一人だけの、貸し切りで嬉しい限りです」

 柾の実家の方にも、人の気配は全く感じられない。きっと、皆、柾の元へと駆け付けている頃だろう。
 私は、写真立を背負いなおすと、三ノ鳥居の前でお辞儀をした。そして、厳かな心地で、拝殿へとまっすぐ進んでいく。

 しんしんと、雪が降り積もっていく中、私は、賽銭箱によじ登った。そして、用意していた五円玉を放り込む。からんころんと、無機質な音が、静かな空間に響いた。
 私は、賽銭箱から飛び降りると、改めて姿勢を正し、二回お辞儀をした。
 そして、手をぱんぱんと、合わせる。ふかふかな手の拍子は、くぐもった音がした。

「神様いつもお恵みをいただき、誠にありがとうございます。私は、〇〇区、〇〇町、〇番地に住む、三枝フユと申します。この度は、お願い事があって参りました。
……もしも、もしも、本当にそこに居られるなら、このふつつかな私の願い事を叶えていただけないでしょうか?」

 私は、かつて、ハル様から習った、お願い事の仕方を、
 私は、かつて、ハル様と共に参った、幸せな心地と共に、実行した。

「御柳柾の命を救ってはいただけないでしょうか?
あの男は、ただの器械である私を、
友人とし、家族とし、
大切に慈しみ、いつも傍で支えてくれ、守ってくださいました。
私にとって、そのような存在は、もうこの世に、あの男しか残されておりません。
そんな存在が、この世から失われることが、私にはとても耐えがたく、とても悲しく、
そして、あの男を大切に思う者達の、これからの悲しみを思うと、私はいてもたってもいられません。
私は、あの男に、死んでほしくありません。……あの男の命を助けてください」


 私は、心の中だけで願っていた言葉を、いつしか口に出して言っていた。
 そして、言った。暗い決意を込めて。だけど、どこか誇らしく思いながら、言った。


「その代わりに私の大切な物を差し上げます。私の命です」


 きっと、本当に神様がいるのなら、今「は?」と思ったはずである。
 そんないたずらが成功したような気がして、私は少しだけ可笑しな心地がして。
 けれど、これも最後だなあと思うと、切なくて。

「私は、器械です。当然、誰もが思うように、私には命がありません。持っている物と言えば、血の通っていない鉄の体ぐらいです。だけど、」

 私は前を見た。

「……彼らは、いつも私を一人の人間として、一つの命として、ここまで大切に慈しみ、守ってきてくださいました。
こんな張りぼての私なんかに、生きてと言ってくれ。
こんな空っぽの私なんかに、幸せになれと言ってくれ。
私は彼らに、空っぽの器に、命を注いでもらったんです」

 「だから」と私は続ける。

「私は、今日。彼らの愛を、もらった命を、仇にして返します。彼らが私に願った事――私が幸せに、自分を大切に、ずっと生きていてほしいという願いに、私は反抗します。これから先にあったはずの、幸せも何もかも捨てます。
彼らの願いをすべて裏切って、私は彼ら全員を悲しませてやります。要するに、私は、」

 私は、ほほ笑みながら言った。


「私は、私の存在のすべてを、あなたに差し上げます」


 私が話し終えると、あたりは再び、シンと静まり返った。
 一礼をする。しかし、何も起こらない。
 ただただ、静かに雪が降るだけである。


「……」
 賭け、みたいなものだった。
 駄目で、元々だった。

 暗い心地で私は思う。分かっていたはずだった。
 神様なんているはずもないから――。




――からん、ころん、かっしゃん。

「……!」
 何かが連続して落ちていく音がする。
 振り返ると、それは絵馬だった。
 絵馬掛所がうすぼんやり光っている。そこから、絵馬が落ちてきていた。

 私は、訳が分からないまま、そこへ行った。
 そして、落ちた絵馬を見て、ハッとしてそれを拾った。


『神様、一人ぼっちは寂しいです。私と一緒にいても、死なない友達がほしいです。 三枝 春』

『神様、死なない友達ができました。本当にありがとうございました。 三枝 春』


 次々と落ちていく絵馬を拾い上げ、読んでいく。読み終わるたびに、それは儚く空気へと溶けて、消えていく。


『神様、フユと喧嘩しました。謝れますように。 三枝 春』

『神様、フユと仲直りできました。本当にありがとうございました。 三枝 春』

『神様、最近フユの調子が悪いです。きちんと直してあげられますように。 三枝 春』

『神様、フユの修理が無事終わりました。ありがとうございました。 三枝 春』


『神様、柾が結婚してしまいました。悲しいけれど、フユがいます。
これからもずっと一緒にいられますように。 三枝 春』


『神様、フユが鈍感で私の気持ちに気づいてくれません。
私だって、心の機微ぐらいあります。フユだけには、見られてしまっているはずなのに。
フユがもっと、人間と、乙女の心を分かってくれるようになりますように。 三枝 春』


『神様、フユに思ってもないことを言って、傷つけてしまいました。
フユといつかきっと、仲直りできますよう。
フユといつかきっと、一緒に、また暮らせますように。 篠原 春』


 数百、いや、数千の願いが、落ちて、消えていく。
 そして、最後の一枚となった絵馬が落ちた。私はそれを拾い――



『たとえ私がいつかいなくなっても、
たとえ私がいつか守ってあげられなくなっても、
フユがずっと毎日、毎日。
ただ生きて、ただ幸せでありますよう、
神様、どうか後のことを、頼みます。 三枝(・・) 春』



「……成就すれば、分かっていたことですが、これほどまでとは。ひどいですね……神様。これが代価ですか。私に、願った事の、取り返しのつかなさを実感させるための……」

 私は、空を見上げた。いつの間にか、目から涙が流れていた。それでも、静かに降ってくる雪の向こうを見つめて、ただただ語り掛ける。

「彼女のこんなにまでの切なる思いを、願いを、裏切ろうとしていることを私に知らせて……さすがですよ、神様。だけど、」

 私は、泣きながらも、微笑んだ。

「あいつの、柾の命に、それほどまでの価値があると分かって、私はとても光栄です」

 見えぬ相手を恨む心地もしない。
 ただただ、感謝の意がそこにはあった。

 私は、最後の一枚の絵馬を空にかざした。絵馬は、きらめく粒子となって空気に霧散していく。
 私は、すっとその場に直った。もう覚悟は決まっている。
 頭を下げ、神に感謝をささげた。
 すると、後ろで気配がした。
 誰もいない。雪が静かに舞うだけ。

 だけど分かった。

 三ノ鳥居の向こうに、誰かがいる。
 必死になって、叫んでいる。
 なんとなく、誰か分かって、私は、言った。

 彼に、最後の言葉を。

「ありがとうございました。
こんな私を愛してくださって。こんな私を慈しんでくださって。
こんな私と親友でいてくださって。
こんな私に、生きろ、幸せになれと言ってくださって。
だけど、私は、あなたの願いを裏切ります。ごめんなさい」

 私は、頭を下げた。そして、顔を上げると、ほほ笑んで続けた。

「魂のない私は、あなた方人間とは、生きている間のただの一度しか、共にいることができません。死に別れてしまえば、私は、もうその人には二度と会えないんです。
あなたが死んでしまったら、私はもうあなたに会えません。だけど、私が死んでしまっても、その後は無で、あなたには会えません。

どうせ、同じで、どちらを選んでも、二度とあなたに会えないのならば、私は自分の死を迷わず選びます。

あなたが、この世に生きて、これからの未来を幸せに、皆と共に生きていく。
あなたが、私にそう願ったように、私はあなたにもそう願います。

あなたは、それほどまでに大切な、私の親友でした」

 返事は当然聞こえない。だけど何を言っているのか、分かる。だから、私は、ちょっとだけ泣いて言った。

「できることならば。せめて。
あなた方が人生を満足し、終える
悲しくも、幸せな、その日まで。

ずっと一緒に、ずっと傍で見守って。
そして、ずっとずっと、あなたたちとの思い出を大切に胸に、
終わりのない、私の命の中、心の中で生き続けるあなたたちと共に、
まだ知らぬ、人の元へと、まだ知らぬ、広い世界へと、
歩いて行きたかった。

だけど、私は、そんなことよりも
あなたのほうが大切でした」

 頭の上で、嵐の気配もないのに、ゴロゴロと空が鳴り始めた。
 この後のことがなんとなく分かって、私は、拝殿のほうを向き直った。

「神様、ありがとうございました。後、最後に一つだけ。お願い事ではなく、あなた様に差し上げたいものがあるんです」

 私は、にこ、と笑うと、言った。

「私の記憶を――思い出を、いただいてもらえないでしょうか? これまで私が大切にしてきた思い出の、全部。

私が笑ったこと、
私が悲しんだこと、
私が怒ったこと、
私が嬉しかったこと、
私が必死になったこと、
私が誰かを愛したこと――

そのすべてを、誰か一人だけでも、この世界で知っている方がいると思えば、私は、私は――」

 私は、ほほ笑むと言った。

「何の悔いもなく、無に帰ることができます」

 閃光が空を走った。雪が本降りになる。
 いや、降ってきたものは雪ではなかった。
 降ってきたのは、ほんのり桃色に光る花――ライラックの花だった。
 花が、花が、あたりを埋め尽くそうと、降ってくる。
 香りなんて、データでしか感じられない。

 だけど、なぜか。
 その香りが辺りを、それはそれは、芳醇に漂っていることが分かった。

 桃色のライラックの花言葉は、確か、記憶――。

「聞き届けて、いただけたんですね……」

 花の降る空を見上げながら、私はつぶやく。
 もうこれで思い残すことは、何もない。


 後ろの気配が駆けだした。
 先程まで足止めをされていたその気配は、私をめがけてまっすぐに走ってくる。

 きっと私のために――。
 きっと私を抱きしめるために――。

 彼が手を伸ばす。
 私の名を叫ぶ。
 もう少しで手が届く。

 だけど、私は、振り返らずに、ほほ笑んで言った。

「うるさいです」
――そういう友達想いのところが、

「いいかげん、体に、家族の元に、戻ってください。柾」
――私は、いつも大好きでした。


 拝殿の前に、閃光と爆音が、落ちた。
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