春が追い付く二拍手前。
 私が彼女に再び会うことになったのは、それからひと月もしないうちだった。


「その木、切るんですか」

 業者の者たちが、せわしなく庭を行き来するのを、庭の片隅で座って見ていた私に、声をかけるものがあった。振り返ると、生け垣の切り株の向こう――道路で、通行人らしき女性が、こちらを見ている。

「こんにちは……。ご近所さんですか? ……庭木を切ってしまわないといけなくなりまして。今日一日、騒音でご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが……」

 私が、おぼつかなくなった足でなんとか立ち上がって頭を下げようとしたとき、彼女はそんな私を気遣ってか、慌てて座ったままでいるように促した。

「……みんな切ってしまうのですか? あの木も……?」

 彼女は、庭の真ん中に生えている、ライラックの木を指さし聞いた。なぜだか、とても複雑そうで――悲しそうな顔をしていた。

「……年を取りすぎて、家の管理もままならなくなってしまってね。来月から施設に入ることになって、その前に自分の周辺の整理を……この屋敷を解体することにしたんだ。
……年を取るというのは嫌なものだね。自宅の管理どころか、自分の四肢の自由すら制御できなくなってくる。だから、大切なものすら、守ることができなくなる……」

 私は、大切な木――桃色のライラックの木の幹にチェーンソーの刃が入れられるのを、両手で杖を握り締め、見つめていた。  
 もともとは二本あったその木も、今は一本しかない。紫色の方はとうに枯れてしまって、樹木医に診せると寿命だということだった。残った一本も近年はめっきり弱ってしまって、花をつけない年もあった。

 それでも大切だった。自身のかつての思い出が、大切な者達が、確かにそこに在ったという証明であったから。そして、忘れてはいけない、自身が背負っていくべき業の象徴でもあったから。

 だから、守りたかった。
 だから、一縷の望みにかけて、良いと言う方法を山ほど試し、今日の日までなんとか命をつなげてきた。


 だけど、今や、それは叶わない。自由の利かなくなった手と、足を見て、そして現実(まえ)を見る。
 切られて失われていくモノを、私はただ見つめているしかない。


「いくら大切なものでも、あの世までは持っていけないから、これでよかったんだ」

 木の命を絶つ音が、あたりに響く。
 私はその音を聞かないように、自らに言い聞かせるようにつぶやく。そうしないと、理性を失い、叫び出しそうだったからだ。


「……確かに、大切なものは、あの世までは持っていけませんね。けれど、」

 静かに女性がつぶやいたのに、私は振り返った。いつの間にか女性は、私の後ろにに立っていた。女性は木が切られ、倒れていくのをつらそうに、しかしどこか清々しい表情で眺めている。

「憶いは、持っていけます。大切な憶いは。
もしも、忘れてしまっても、覚えていなくても、魂の奥底には相変わらずに、いつもそこに在る」

「……」

「憶いの象徴だったものが、例えこの世から消えてしまっても。なくなってしまっても。
自分自身がしっかりと、その憶いを大切に胸に(いだ)いていれば、形は消えても失われない。……私はそう思うんですよ」

 私は、その清々しい表情に、どこかで見覚えがあった。
 そうして自身の記憶を思い返した時、私は、目の前の彼女があの日見た花嫁だという事に気づいた。

「お嬢さん、この間、あちらの神社の方で、結婚式を挙げていらした方でしょうか?」

 ふと口をついて出た問いに、彼女はどきりとしたようだった。

「確かにこの間、結婚式をあそこで挙げましたが……その時、参詣されていたのですか?」
「……氏神様に今までお世話になりましたと、挨拶をしに行った帰りに見かけてね。
人生最後のお参りにと行ったから、とても良いものを見せてくださったと思っていたんですよ」

 私はにこやかにほほ笑むと、言った。

「ご主人も男前で、とても優しそうな方だったし、あなたもそれはそれは幸せそうな顔をしていたから……とても良い方に巡り合えたのですね。私みたいな男を選ばなくて大正解ですよ……」

 と言ってしまってから、私はしまった、と思った。これから幸せいっぱいの新妻に、不吉な事など言うべきではない。するとやはり、彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。


 かつて研究者だった私には、その研究のせいで、娘を犠牲にし、不幸にしてしまった過去がある。
 厳密に言えば、娘を最初から不幸にしていたのは私のせいであった。
 だが、自身の研究が発端である、或る事件をきっかけに、私は世間から憐れまれ――あるいは無能な父親として批判され――とにかく、私は世間から様々な形で噂されていた。

 あんなに大きな事件だ。私と同じ町に住んでいるのであろう彼女なら、その噂を知らないはずがない。だからこそ、この表情なのだろう。


「……お嬢さん、私はね、娘を殺したんです」
「……」

 彼女は、ぴくりと震えた後、固まってしまった。
 やはり、私についての噂は知っているようであった。
 私は、倒された後、裁断され運ばれていくライラックに視線を戻し、続ける。

「あの木は、娘が大切にしていた木でしてね。……娘が大切な()と一緒に植えた木だったんですよ」
「……」

「娘を死に追いやった私はね、娘が……いや、娘を大切にしていたその()に謝った後、死ぬつもりでした。だけど、その()に気づかれて、叱られてしまいましてね。
自分の蒔いた種から生えたものは、全部枯れるまで世話をしろって。……そうして地べたを這ってでも、最期まで生きろって言われましてね。……そうやって苦しんで生き抜くことで、迷惑かけた者たち、全部に償えって……」

 視界が、次第にぼやけてかすんでいく。

「私は、もうそうは長くない。自分の体のことは、自分が一番よく分かっている」
「……」

 私は、空を見た。瞬きすれば、ほろりと目から雫が零れ落ち、景色が鮮やかに映る。
 青く高い空が、ただ静かに、そこにはあった。

「私は、充分苦しめただろうか。充分償うことができただろうか……」

 私は()を振り返りかけて、その存在のとうに失われていることを思い出す。
 その問いに答えてくれるものは、もう、永遠にない。


「……もう、充分、だと思いますよ」


 振り返ると、彼女はこちらを見ていた。奇妙な表情であった。それは、同情心から相手を、その場限りの建前で慰めようとしてする表情ではなかった。

「何がとか、どうしてそう言えるのか、とまではうまく言えませんが。だけど。充分、だと思いますよ。私は」

 彼女の表情は、呆れ半分、諦め半分を含んだ、微笑みであった。まるで、友人や家族の大失敗を、仕方なく許すかのような表情であった。
 友人でもない、ましてや家族でもない赤の他人にそんな表情をする彼女を、不思議に思いながら見ていると、彼女は続けて言った。

「それでも納得がいかないのなら、後はあの世で奥様(・・)に謝ってから、ぼこぼこに殴られればよろしいですよ。そうすれば、その苦しみも悩みも、きっと晴れますから」
「……ッ。」

 いつか、妻と娘に、あの世でぼこぼこに殴られること。

 自身がいつも胸の内で望んでいたことを言われ、一瞬息をつめた私に、彼女はにこりと笑いかけた。そして、すっと前へと歩み出ると、先程までライラックのあった場所にしゃがんだ。

 彼女は地面から何かを拾い上げると、それを手に持ち、私に問いかけた。
 それは、ライラックの小枝だった。

「これ、いただいても?」
「え、ええ、よろしいですが……そんなものを、何に?」
「内緒ですよ」

 彼女はいたずらっぽく、笑った。
 まるで、いたずらっ子が、小さなたくらみを隠す時のように。



『おとーさん』
 こんな表情を、実の娘から、かつて向けられたことを思い出す。
 それは、娘の顔を面と向かって見られなくなる前の、はるか昔の事。

『ないしょ』
 くくくと笑い、背に何かを隠す娘。そのかつての他愛ない日々の笑顔と、目の前の女性が重なって見えた。


 そのことは、先程心の中に芽生えた霞のような何かに、疑念と言う実体を取らせるには、充分な出来事であった。



「それでは、いただいて帰りますね」



 女性は私の前まで戻ると、お礼を言い、頭を下げた。そして、屋敷をぐるりと懐かしむかのような目で見た後、庭に視線を戻し、そして再び私を見た。
 彼女は、笑った。少しだけ、寂しそうな色がその目に映ったのは、疑念を、確信に変えるのには充分であった。

「では、私はこれで失礼いたします」

 女性は、私に再び頭を下げると、踵を返した。

「待ってくれ!」

 私は、慌てて立ち上がった。だが、よろけて椅子のひじ掛けにもたれかかった。
 彼女は立ち止まると、そんな私を振り返らず、言った。

「幸せですよ。私は今」
「……」

 彼女が、自身の腹を愛おしそうに撫でたのに、私はハッとする。

「とても。とてもとても長かったですが、積年の想いも叶いましたし。」
「……? ………ッ!」

 その言葉の意味に気づき、驚愕する私に、彼女は肩越しに振り返って微笑みかけた。

「だから、もう恨んでもいない。憎んでもいない。それに……ずっと、見てきた(・・・・)から。もう充分、気持ちは受け取ったから」
「……そうか」

 ほう、と長い息をついてから、私は立ち上がった。立ち上がって、彼女に向き合った。
 そして、微笑み返した。

「体を、大事にな」
「……ええ、あなたも」

 彼女はふふふと、笑った。

「くれぐれもお体をご自愛ください。きっとあなたの奥様は、拳を鍛えて待っているでしょうから。
体力を残しておかなくては、きっとすべての拳を受け止めきれないでしょうから。」
「ああ、そうさせてもらうよ」

 私は、静かにほほ笑み、頷いた。


「では、それでは」
「ええ、それでは」


 きっと、もう、今生で彼女と出会うことはないだろう。
 だけど。


――また、いつか。


 私は、再び庭を向いた。遠ざかっていく彼女の気配を背に、目を閉じ、ほほ笑む。
 彼女もまた、同じことを思っているのだろうと、感じながら。
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