天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
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 鶯を抱いた夜、黒緋は夢を見た。
 天上にいた頃の夢だ。

 天上界。
 天帝・黒緋の力で邪神を封じたが、四凶(しきょう)が暴れる地上は地獄絵図のようだった。
 黒緋は四凶(しきょう)を討伐せんとするが、四体もの怪物を相手にするのは天帝といえど至難(しなん)(わざ)だった。

「ああ、可哀想に……」

 黒緋は変わり果てた地上に(なげ)いた。
 地上と繋がっている池の前で膝をつき、拳を握り締めて水面(みなも)に映る地上の惨状(さんじょう)を見つめる。
 水面に映る地上の光景は無情なものだった。
 天災による飢饉(ききん)で多くの人間が死に()えていく。
 人心が荒れ、弱者が虫けらのように殺されていく。
 まるですべての人間が理性を失ったように退廃(たいはい)していく。
 そこに一切の救いはなく、あまりの悲惨で(おぞ)ましい光景に黒緋は憤怒(ふんど)と悲しみに(なげ)いていた。

「黒緋様」

 そんな黒緋に背後から声がかけられた。
 振り返らなくても分かる。天妃の鶯だ。

(なげ)かないでください」
「これが(なげ)かずにいられるか!」

 黒緋は地上を見つめたまま怒鳴った。
 天妃は宮中の奥にある後宮で暮らしている。滅多に外に出ることがないので地上を知らないのだ。
 だから他人事のような言葉を吐ける。

「お前には分からないだろう。俺がどれほど(なげ)いているか……!」

 黒緋は地上を見つめたまま背後にいる天妃に声を荒げた。
 八つ当たりだと分かっている。だがこみあげる憤怒(ふんど)と悲しみが制御できない。
 それなのに天妃はいつもと変わらない。

「……そうですね。私は地上に興味がありませんし、好ましく思えるほど知っているわけでもありません。ですから、あなたが(なげ)く気持ちも分かりません」

 天妃が淡々(たんたん)とした口調で言った。
 黒緋は(にら)むが、天妃の美貌は氷のように涼しげなままである。

「本当に分からないのか!!」

 黒緋は立ち上がり、天妃の正面に立って睨み下ろす。
 天妃は瞳に(わず)かな(おび)えを走らせたが、「分かりません」と小さく頷いた。
 だが、天妃は黒緋を見つめたまま言葉を紡ぐ。

「でも、あなたの笑顔が失われるのは嫌です。だから、あなたの笑顔を取り戻す方法をずっと考えていました」

 天妃が静かな口調で言った。
 その言葉に黒緋が(いぶか)しむ。どういう意味だと聞き返そうとしたが、それを(さえぎ)るように天妃の手が黒緋の目を(おお)った。
 そして。

「お願いですから笑顔でいてください。――――私の愛おしい御方(おかた)

 視界を(おお)われた黒緋の唇に柔らかなものが重なった。
 それが天妃の唇だと察した次の瞬間、視界を(おお)っていた手がするりと離れる。
 開けた視界に映った光景に黒緋は愕然(がくぜん)とした。
 映ったのは、地上に身を落とす天妃の姿だった。
 池に(うず)が発生し、あっという間に天妃を飲み込んでいく。

「天妃……? ……お前は、なにを……っ」

 黒緋の声は震えていた。
 事態がうまく飲み込めない。
 でも次の瞬間、地上から四凶(しきょう)禍々(まがまが)しい気配が消え失せた。
 地上に降りた天妃が自分のすべてを引き替えにして四凶(しきょう)をその身に封じたのだ。
 今まで天妃は目の前にいたのに、声を聞いていたのに、唇の感触を感じていたのに、……忽然(こつぜん)と消えてしまった。
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