天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
天帝が暮らす宮殿の敷地内には広大な森がある。
天上にあってもなお清浄な空気に満ちる森。そこは天帝と天妃しか立ち入れない神域だった。
黒緋は森の小道を歩き、しばらくして池が見えてきた。
そして池の畔には鶯の後ろ姿。ずっと探していた鶯は森の池に来ていたのだ。
鶯は頭上に天妃の宝冠をいただき、金糸の刺繍が施された萌黄色の衣装は幾重にも重なって気品に満ちている。なにより纏っている神気は春の木漏れ日のように優しく、ひと目でこの世で尊い身分の女性だとわかるものだ。
だが今、鶯は衣装の裾や袖が汚れるのも構わず、畔から池の底を覗きこんでいた。
神域の森にある池は地上に繋がっているのである。
かつて天妃が四凶を封じるために地上へ身を落としたのもこの場所だった。
「鶯、まさか一人で地上へ降りるつもりか?」
「黒緋様……!」
鶯が驚いた顔で振り返った。
「ど、どうしてここへ」
「お前を探していたんだ」
「そうでしたか、すみません。ご心配をおかけしました……」
申し訳なさそうな鶯に黒緋は苦笑する。
困らせたいわけではないのだ。悩みがあるなら話してほしい、それだけである。
「気にしなくていい。それより何か悩みでもあるのか?」
黒緋は鶯と並んで膝をつく。
そして鶯が見つめていた地上を見下ろした。
「…………萌黄?」
池の底には鶯の妹である萌黄が映っていた。
黒緋は意味が分からない。
しかし鶯は深刻な顔で萌黄を見つめていた。斎王の萌黄は斎宮にある一室で客人や巫女たちと神事の話し合いをしているようだ。だがそこに不審な点はない。
「鶯、なにをしているんだ?」
「なにって決まってるじゃないですか。萌黄は鈍臭いところがあるので、姉の私が守ってあげなければいけません。……ん? あの客人の男、さっきから萌黄をいやらしい目で見てるような……。ゆ、許せませんっ、萌黄に不埒なことをするなど」
「おい、落ち着け。まだしてないだろ」
黒緋は慌てて止めた。
放っておいたら池に飛び込んで地上に降り、そのまま乗り込んでいってしまいそうだったのだ。
「そんなに心配いらないだろう。萌黄は斎王だ。斎王をどうこうできる男なんてそういないぞ」
「そうかもしれませんが、萌黄は鈍臭いだけではなく子どもみたいなところがあるんです。いつも私にくっついて、どこへ行くにも私と一緒で。だから子どもの時はどんな時も私がよしよししてあげていたのです。そんな世間知らずの萌黄が苦労していないはずないでしょう」
「…………」
きっぱり言い切った鶯に黒緋は無言になってしまった。
今、池の底に映っている萌黄。それは激しく意見が飛びかっている会議で決して自分の意志を譲らず、都から来たであろう客人を厳しい意見で黙らせていた。
鶯が話している萌黄とは同一人物とは思えないのだが……。そもそも萌黄は天帝の黒緋に意見した女なのだ。可愛らしい雰囲気に似合わず豪胆なところがあると黒緋は思っている。
しかし、鶯の目には可愛くて鈍臭くて世間知らずのか弱い妹に映っているらしい。