天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「珍しいな、お前が後宮から出てくるとは」
「天帝がお帰りになると聞いたので参りました」
「気まぐれか」
「……しばらく宮殿にお帰りがありませんでしたので。また地上へ行っていたのですね」
「…………」

 (とが)めるような言葉に聞こえて黒緋は内心冷ややかな気持ちになった。
 後宮の奥から滅多に出てこないこの女は、地上の人間の(いとな)みの尊さが分からないのだ。

「私はどうして天帝がわざわざ地上に降りるのか存じませんが、天帝にもしものことがあれば一大事です」
「分かっている。だが、俺は人間が愛おしい。短い寿命のなかで精いっぱい生きている人間が。彼らはどんなに辛いことがあってもささやかなことに微笑んでいる。そんな人間たちを見守ることが俺の喜びだ」

 黒緋は楽しそうに人間を語った。
 人間を語る時、黒緋は無意識に顔が穏やかになる。思い出すだけで頬が緩み、優しい気持ちになれるのだ。
 とても気分が良くなった黒緋だが、視線を感じて内心苛立った。
 天妃の視線だ。
 黒緋が人間を語る時、天妃はじっと黙って黒緋を見ている。その視線を(うと)ましく思うのは、咎められているように感じるからだ。
 地上に関心がない天妃にとって黒緋の言動は理解できないものなのだろう。この女には分かるまい。

「奥で休む」

 黒緋が歩き出すと、天妃も静かに後ろをついてくる。
 後ろから視線を感じていたが黒緋は無視した。どうせ(とが)めたいだけの女なのだ。



「――――うっ、う……。……眠っていたのか……」

 黒緋は重い(まぶた)をゆっくり開けた。
 (かす)む視界に映るのは見慣れた天井。
 夢を見た。まだ天妃が天上にいた頃の夢だ。
 かつての日々を思い出して黒緋はため息をついたが。

「鶯……」

 息を飲んだ。
 鶯が(はだか)で自分にしがみついていたのだ。
 その姿に状況を理解する。離寛と話していたところを式神の女官から鶯が買い物へ行ったと聞いたので、心配になって市へ行ったのだ。そこで野犬の()れが鶯を襲っているところを目撃し、咄嗟(とっさ)(かば)って野犬に噛まれたのである。
 野犬は猛毒を持っていたようで、黒緋はそのまま意識を失ったのだ。

「温めてくれていたのか……。ありがとう」

 黒緋は鶯を抱きしめた。
 抱きしめると優しいぬくもりに包まれて、その安心感に黒緋はまた眠ったのだった。

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