天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「始まるぞ」

 黒緋がそう言うと、水鏡の満月が光を放ちました。

「こ、こんなことがっ……」

 目の前の光景に息を飲みました。
 夢でも見ているようです。
 だって水鏡の満月の光は緑の(くき)となり、葉となり、そして(はす)(つぼみ)になりました。
 満月の輝きを放っている(はす)(つぼみ)。蕾は赤ん坊ほどの大きさまで丸くなって、ゆっくりと開花したのです。
 そして、大きな(はす)の花のなかには男の子の赤ん坊がいました。

「黒緋様、赤ん坊がいます!!」

 私は思わず飛び出しました。
 庭を駆けて躊躇(ためら)わずに池に入ります。
 濡れるのも構わずにザブザブと池の中を進み、(はす)の花の前まできました。

「信じられませんっ……。こんな、こんなことがあるなんてっ……!」

 そこにいたのは利発そうな顔立ちをした黒髪の男の子。つぶらな瞳でじっと私を見ています。
 こんなの奇跡です。だって本当に蓮の花から赤ん坊が生まれるなんて。
 おそるおそる手を伸ばしてみる。
 赤ん坊のふっくらした頬に触れてみると、赤ん坊は顔をくしゃりとさせました。小さな鼻をむずむずさせた様子がかわいくて、かわいくて。

「初めまして、私は鶯と申します。抱っこしてもいいでしょうか」

 優しく聞いてみると、赤ん坊が私に向かって小さな手を伸ばしてきます。
 私はそっと抱き上げて、ああ……。ため息が漏れました。
 両腕にかかった甘い重み。そのぬくもりに自然と笑みが零れて、赤ん坊に頬を寄せました。
 私は赤ん坊の温もりと香りにまたため息をつくと、黒緋を振り返ります。

「黒緋様、赤ん坊です! 本当にあなたと私の子が出来ました! 黒緋さま……?」

 黒緋を見て目を丸めました。
 池の(ふち)に呆然と立っていた黒緋は、そこから赤ん坊を見つめて目に涙を溜めていたのです。

「黒緋様、どうしたんですか?」

 私は驚いて赤ん坊を抱っこしたまま池の中をザブザブ歩いて黒緋の前まで行きました。
 赤ん坊を両腕に抱いたまま池の中から黒緋を見上げると、突然赤ん坊ごと黒緋に強く抱きしめられます。

「わっ、黒緋様! この子が(つぶ)れます!」

 きつく抱きしめられて私の顔が熱くなってしまう。
 照れながらも抗議しましたが黒緋の両腕が(ゆる)むことはありません。

「嬉しいんだ! やっとだっ、やっと悲願が叶うっ……!」

 黒緋は涙に震えた声で言ったかと思うと、私の両脇に手を入れて軽々と持ち上げました。

「やったぞ鶯! 本当によくやってくれた! お前は最高だ!」

 池から(すく)い上げるように持ち上げられて、そのままくるくると回りだされてしまう。

「わ、わああ〜、やめてくださいっ。目が、目が回りますっ……!」

 私を抱え上げたままくるくる回られて目が回ります。
 体が(ちゅう)に浮いてちょっと怖いんですけど。
 黒緋の激しい喜びように気が遠くなりそう。

「お、降ろしてっ。降ろしてください! 赤ん坊がびっくりしますよ!」
「そうだった!」

 ぴたりっ。ようやく止まってくれました。
 しかもそーっと慎重に私を降ろしてくれます。さっきとは打って変わった丁重(ていちょう)な扱いに思わず笑ってしまいました。
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