天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「こらこら、髪を引っ張ってはいけません」
「あーうー」
「ふふふ、仕方ないですねえ」

 紫紺のまろい頬をちょんちょんとつついてあやしました。
 紫紺を抱っこしていると今まで感じたことがない穏やかな気持ちになります。
 だって、じわりと伝わる体温がこんなに温かいのです。
 この小さなぬくもりを守り抜かなければと……、…………ん?

「……本当にぬるいような…………」

 ハッとして温もりの正体を(たし)かめると。
 チョロチョロ〜〜。
 紫紺の足が()れていて、私の夜着まで()れていて……。

「お、お()らししましたねっ……!」

 そう、お()らしでした!
 しかも紫紺は満足そうに手足を動かします。

「あーあー」
「あーあー、ではありません。ああこんなに濡れて……」
「あうー」
「う、動いてはだめです。すぐに綺麗にしてあげますからじっとしてくださいっ……」
「あーうー」

 お()らししたのに元気な声をだしてなんだか(ほこ)らしげ。
 それを見ていると()らされたのに脱力して笑ってしまいそうになる。
 仕方ありませんね、だってまだ生まれたばかりの赤ん坊です。赤ん坊とはお()らしするものですから。それくらい子育て初心者の私にだって分かります。

「これが赤ん坊というものなのですね、手強(てごわ)い相手ですがお相手しましょう」
「あうあー」
「ふふふ、朝から元気でよいことです」

 私は笑って言うと紫紺を綺麗にするために湯殿(ゆどの)に連れていきます。
 こうして私の子育てが始まったのでした。



「子育てというのは大変なんですね……」

 昼餉が終わって私はようやくひと息つけました。
 朝から慣れない子育てで慌ただしい時間をすごしていたのです。
 朝のお()らしから始まり、朝餉(あさげ)では用意してもらった乳を「べー」と吐き出され、着替えをさせたり、抱っこして寝かしつけたり……。朝から振り回されて大変でした。
 式神の女官たちが手伝ってくれなければ、今こうしてひと息つくことも出来なかったでしょう。

「あーうー」

 紫紺が上機嫌な声をあげています。
 座敷に()いた敷物(しきもの)に仰向けに寝転がって小さな手足をバタバタさせていました。機嫌がいいのはよいことです。
 私はその姿に目を細めると、さっそく琴の稽古(けいこ)に励むことにしました。
 伊勢を離れたとはいえ私は斎宮の白拍子。稽古をやめてしまうことはしたくありません。
 午後の穏やかな陽ざしと(ゆる)やかな風に乗って琴の音が寝殿に響きました。
 側の紫紺も「あー」「うー」と琴音に合わせるように声を出してくれます。
 私もそれに応えるように琴を奏でていました。

「鶯、琴の稽古か?」

 ふと黒緋が訪れました。
 私は(げん)(はじ)く手を止めようとしましたが、「続けてくれ」と黒緋に稽古を続けるように言われます。
 黒緋は静かに入ってくると紫紺の側に腰を下ろして私の琴を聞いてくれました。
< 36 / 141 >

この作品をシェア

pagetop