天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
私の知らないあなた
紫紺が『うういしゅ』と私の名を呼んでくれてから、月の満ち欠けが二巡しました。
今、紫紺は三歳ほどの幼子になりました。
初めて『うういしゅ』と呼ばれた時は感動したものですが、今ではしっかり『ははうえ』と呼ぶようになりました。黒緋のことも上手に『ちちうえ』と呼んでいます。
普通ではない成長速度には目を見張ります。最初は困惑することもありましたが、紫紺が元気に庭園を駆けまわったり、私の作った料理をたくさん食べてくれたり、すやすやお昼寝したり、そういう姿を見ているうちに気にならなくなりました。
かわいくてかわいくて、でも。
「いいですか、紫紺。今日から鍛錬が始まります。辛いこともたくさんあると思いますがお利口に鍛錬するのですよ?」
「わかった。だいじょうぶだ、オレはできる」
紫紺がこくりっと頷きました。
そう、今日から紫紺の鍛錬が始まるのです。
「紫紺……」
私は紫紺の幼い手を取り、両手で包むように握りしめました。
そしてまだ三歳の紫紺に言い聞かせます。
「約束してください。危ないことはしないこと、黒緋様の言うことをしっかり聞くこと、わがままはしないこと」
「わかった」
「お昼のおにぎりを食べるときはよく手を洗ってくださいね。たくさん食べるんですよ」
「うん。ははうえのおにぎりだいすきだ。ぜんぶたべる」
「いい子です。他にも」
「鶯、まだか?」
私の注意を遮るようにして黒緋が声をかけてきました。
最初は見守ってくれていた黒緋ですが焦れてしまったようです。
「す、すいませんっ。初めての鍛錬ですから注意をと思いまして」
「紫紺なら大丈夫だ。必ず強くなる」
「ええ、そうですが……」
紫紺は黒緋の血を引いた特別な子どもです。必ず強くなるでしょう。
でもどうしても心配を隠せない。
だって紫紺はまだ三歳の幼い子どもなのです。普通の子どもと違うと分かっていても、どうしても不安を覚えてしまいました。
困惑で俯いてしまう私の肩に黒緋の大きな手が乗せられました。
「……心配するな。無理はさせない」
「約束してくださいね」
「ああ。大丈夫だ」
黒緋は私を安心させるように微笑むと、紫紺を振り返りました。
「行くぞ」
「うん!」
紫紺は元気よく頷くと、正門に向かって一人で駆けだしました。
初めての鍛錬を遊びの延長だと思っているのですね。
「……あれ分かっていませんよね」
「元気があっていいじゃないか。頼もしいくらいだ」
「そうかもしれませんが……」
物言いたげな顔をしてしまう私に黒緋は苦笑すると、先に行ってしまった紫紺を追って歩きだします。
「では行ってくる。陽が沈むまでに帰ってくる」
「分かりました。夕餉の支度をして待っています。いってらっしゃい」
「ああ、頼んだ。ではな」
私は鍛錬に行ってしまった二人を見送って、その姿が見えなくなると小さなため息をつきました。
黒緋は大人の余裕がある鷹揚な男ですが、でも紫紺を強くすることに関しては強い思い入れがあります。どうしても紫紺を強くせねばならないというのです。
私は理由を知りませんが、いつか教えてくれるでしょうか。
教えてくれますよね。だって私は黒緋の妻で、紫紺の母親です。きっと教えてくれますよね。