天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「怪我はないか?」

 優しく聞かれてハッとします。
 胸のざわつきに困惑している場合ではありません。ここは鬼の結界内なのです。

「どうしてここに人がいるんですか! いえ、今はそんなこと言っている場合ではありませんっ。早くここから逃げましょう! って、なんで走らないんですか!」

 私は焦って声をあげました。
 一緒に逃げようと男の腕をつかんだのにびくともしないのです。
 そんな私の気も知らず男は笑みを深めます。

「結界が張られたから来てみたが、まさか鬼に追われる白拍子と出会うとは思わなかったぞ」

 男はそう言うと私を背後に下がらせます。
 背中に隠されるようにされ、私は慌てて男の狩衣の袖を握りました。

「駄目ですっ、鬼が来ます! 早く逃げないと!」
「大丈夫だ。そこにいろ」
「なにを寝ぼけたことをっ」

 この人は死にたいのでしょうか!
 そうこうしている間にも周囲の空気が(よど)み、とうとう鬼が姿を見せました。

「見つけた! 見つけたぞおおおおおお!!」

 ドスドスドスドス!!
 地鳴りのような足音を響かせて突進してきました。
 まるで大型猛獣が突進してくるようで、もう駄目ですっ、逃げられない……!
 でもその時。

「――――止まれ」

 ぴたりっ。鬼の巨体が止まりました。

「え?」

 唖然(あぜん)として男の背中を凝視しました。
 止まれと命令したのは男だったのです。
 男は淡々と言葉を続けます。

「どこの鬼か知らないが、俺の都で面白いことをするじゃないか」
「き、貴様は陰陽……師……」

 鬼は体を動かせないまま顔面を恐怖で歪ませました。
 陰陽師(おんみょうじ)の男は憂えた顔で鬼を見つめるも、顔前にスッと手を上げて指で(いん)を組む。

「安らかに眠れ」
「や、やめっ。ぐあああああああ!!!!」

 みるみるうちに鬼の巨体が砂塵(さじん)となって消えていく。
 鬼は断末魔とともに消滅したのです。
 ――――キンッ。耳鳴りがして都の音が戻ってくる。
 鬼が消滅したことで結界が解かれたのです。
 一瞬にして鬼を消滅させた男に驚愕が隠し切れません。こんなのあり得ない、陰陽師といえど鬼をいともたやすく討伐してしまうなんて……。

「あなたは、いったい……」

 男に話しかけようとして、でも緊張と恐怖から解放されてどっと疲れが押し寄せてきます。
 急激な解放感に意識が遠くなる。視界が強制的に暗くなって、脱力とともに膝から崩れ落ちてしまう。
 でも私の体を男が抱きとめてくれました。
「しっかりしろ!」と声をかけられたけれど返事もできない。
 お礼だってまだ伝えていないのに、私は意識を手放してしまったのでした。






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