天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
私は黒緋の屋敷で過ごすことになりました。
黒緋からはくれぐれも屋敷を出ないように言われています。私はいつ襲われてもおかしくないようなのです。
昼餉を終えたころ、私は白拍子装束を着て余暇を持て余していました。せっかく都ですごすのだからと黒緋が貴族の姫が着るような上等な着物を用意してくれましたが、見慣れた白拍子の装束が一番落ち着くのです。
本当は今だって炊事をしている予定でしたが、黒緋が世話役に出現させている式神の女官たちはとても働き者で、掃除、洗濯、食事の支度などの仕事があっという間に終わってしまったのです。
私がしたことといえば調理の手伝いですが、貴族が食べる豪華な料理は見たことがない贅沢な材料ばかりを扱うのでなんの役にも立てませんでした。
伊勢の山奥で舞踊の稽古をしながら育った私の食生活は質素で貧しいものだったのです。白米を初めて食べたのも都に入ってからで、ずっと粟やきびを食べていました。
「調理の仕方をちゃんと覚えたいですね……」
思い出してため息をついてしまう。……私なんの役にも立てませんでした。
それに一人で調理できるようになれば、食べさせてあげたい人に作ってあげられます。それは伊勢の斎宮で暮らしている斎王。
贅沢を許された立場にありながら、巫女や白拍子と同じ生活を好むあの優しい斎王に食べさせてあげたい。私が作ったものならきっと食べてくれるはずです。
私は庭園に面した渡殿に出ました。
庭園をぐるりと囲むようにしてある渡殿は広い縁側のような作りになっています。
そこから伊勢がある方角を見つめて思いを馳せる。
「斎王は無事でいてくれるでしょうか。寂しがっていないといいのですが」
今頃、斎王はなにをしているでしょうか。斎宮で天上にいるという天帝に祈りを捧げているのでしょうか。
きっとそうに違いありませんね。代々受け継がれてきた斎王の役目は地上にいながら天帝に仕え、天妃を失った天帝を祈りで慰める役目があるのです。もちろん慰めるといっても相手は天上の神なので会ったことはありません。
日本の人々は天帝を神として崇め、斎王は日本に安寧をもたらす為に祈りを捧げているのです。
でも。
「馬鹿らしい……。なにが天帝ですか」
冷たく吐き捨てました。
祈ったところで天帝はなにをしてくれるのでしょうか。
もし天上の天帝が人々を救うというなら、地上で最も天帝に仕えている斎王の嘆きを聞き届けるはずです。
今の斎王は少し鈍臭いところがあるけれど、とても優しいのです。だから私は今も生きています。
私は懐から扇を取りだしました。
きっと斎王は今も天帝のために祈っていることでしょう。斎王が祈りを捧げるというなら、遠く離れていても私もそれに従いましょう。
扇を広げ、天地創造の神話を舞います。
見物する観衆はいません。奏者が奏でる音色もありません。でもそれでいいのです。私は当代の斎王を支えるために舞っているのですから。
私は舞いに集中し、天帝と天妃の切ない神話を舞い続けました。
でも視線を動かした時、ふと視界に黒緋の姿が映ります。
いつの間にか黒緋が向かいの渡殿から私を見ていたのです。
「黒緋様っ……」
驚いて舞いを止めました。
まさか見られていたなんて……。
でも動きを止めた私に黒緋のほうが申し訳なさそうな顔になります。