天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「あう?」

 青藍が私の顔を(のぞ)きこみます。
 心配させたのかもしれません。「なんでもありませんよ……」と誤魔化すように笑いかけました。
 でも今、頭の中では激しく警鐘が鳴っています。早くここから離れなければ。早く、はやくっ……!
 棒のように硬直する足を無理やり動かします。早く離れなければ、私は……。
 でもそれは間に合わなくて、聞きたくないのに静寂の夜は二人の声を運んできてしまう。

「萌黄、話がある」

 黒緋の真剣な声が聞こえてきました。
 その声に私の立ち去ろうとした足が止まりました。
 聞きたくないのに、見たくないのに、振り返ってしまう。月明かりの下にいる二人の姿が視界に映ってしまう。
 そう、二人が月明かりの下で見つめあう姿が。

「いったいなんでしょうか」

 萌黄が(かしこ)まって聞き返しました。
 斎王の萌黄にとって天帝である黒緋は特別な存在なのです。
 (かしこ)まる萌黄に黒緋は困ったように苦笑して、でも真剣な顔になります。

「萌黄、お前は俺がこの世で出会った人間の中で最も天妃に近い神気を持っている」
「私がですか? でも私は普通の人間です」
「そうかもしれない。だが、その輝く神気には天妃の面影があるんだ」

 黒緋はそう言うと萌黄の肩に手を置きました。
 そして萌黄を見つめたまま言葉を紡ぐ。

「天妃として俺の側にいてほしい」

 届いてしまった言葉に、心臓を短刀で突かれたような衝撃を受けました。
 指先が小さく震えて全身から力が抜けていく。
 二人の姿がまるで天上の絵巻物のような、遠い世界の出来事のように見えました。
 目の前の光景がぼんやりと滲んでいって、……ああ私は泣いているのですね。
 膝から崩れ落ちそうになったけれど、両腕に抱っこしている青藍の重みが私の意識を繋げていました。

「あうあ〜……」

 青藍が大きな瞳で私を見上げていました。
 小さな手が私に伸ばされて、濡れた頬にぺたりと触ります。
 ……ごめんなさい、心配してくれているのですね。
 私はその小さな手をそっと握りしめる。

「……なんでも、ありません……」

 (のど)()りつく声を振り絞りました。
 小さな手に頬を寄せて、大丈夫ですよと笑いかけます。

「ありがとうございます。優しい子ですね……」

 大丈夫ですよと笑いかけるけれど、笑みが歪んでしまう。
 胸が痛い。痛くて痛くて呼吸がうまくできない。
 泣いては駄目なのに、視界が涙で滲んで青藍の顔も見えなくなっていく。

「ふ、ぅ、……ぅぅっ、く……っ」

 駄目なのに嗚咽(おえつ)が漏れてしまう。
 唇を強く噛みしめるのに、次から次へと嗚咽が漏れて、涙がポタポタと地面に落ちていく。
 拭っても拭っても壊れてしまったように涙が溢れてしまう。

「あう〜……」

 青藍の瞳もじわじわ潤みだしました。
 私は大丈夫だと伝えるように青藍をきつく抱きしめます。
 きつくきつく、この小さな赤ん坊に縋るように抱きしめていました。





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