彼にゆずなスイーツを
翌日から、柏木君の態度が余所余所しくなった。朝の挨拶は素っ気なく、目を合わせてくれなくなり、授業中にこっそりと話かけられていたおしゃべりはなくなった。
苦しかった。手の届く距離にいるのに、目を合わせても貰えない。柏木君の態度に哀しみが込み上げてくる。
何がいけなかったのか。どうすればいいのか。考えてもわからなかった。ただ、毎日は暗く沈んだ海の底で、空気を求めるように苦しかった。
対照的に、拓海君の態度は何一つ変わらなかった。あの時の切ない表情は見間違えだったのかと思うほど、拓海君は以前と同じというか、それ以上だった。
休み時間ごとに私の席の傍に来て話しかけてきては、次の部活で作るお菓子は何かと訊ねたり、今度こそは食べたいとねだったりする。
そんな時、私は柏木君を意識する。この状況を見て、彼はどんな風に思っているのだろう。拓海君とのことを、勘違いしていたりしないだろうか。そんな風に怯えても、ただ友達として会話をするだけの相手に「拓海君とはなんでもないの」と説明するのもおかしい。
どうすればいいのか解らないまま、二週間ほどが経ってしまった。
「おはよ……」
いくら素っ気ない態度を取られているとはいえ、隣の席に座っている柏木君に朝の挨拶もしないなんてできず、おずおずと声をかけてみた。
「……はよ」
会話をしてもらうことはできないけれど、挨拶にはボソリとだけれど返してくれた。少しだけ心が救われた。
柏木君は頬杖をつき、窓の外へ視線を向けてしまった。話しかけるなと言われているようで、ズキリと心が痛む。
前みたいに話したいな……。
そんな風に考えてみても、挨拶以外に話しかける勇気は持てず。小さく息を吐き、ノートを取り出した。あの日柏木君が見たチーズケーキのページを開く。今日は部活で、このケーキを作ることになっていた。
あの時柏木君は言ってくれた。作ったら食べさせて。と
素っ気ない態度を取られている私は、もう嫌われているのかもしれない。食べたいと言ったことだって、忘れてしまっているかもしれない。そもそも、ノリで言っただけの可能性だってある。でも。だけど、柏木君に食べて欲しい――――。
今日、このケーキを作ると伝えよう。約束を憶えていなかったとしても、味見して欲しいとお願いしてみよう。断られるかもしれないし。外を見たまま、無視されてしまうかもしれない。でも私は――――。
勇気を振り絞って口を開く。
「柏木く……」
「柚ちゃーん。シャーペンの芯もってない?」
漸くふり絞って出した声は、拓海君の言葉にあっさりと遮られてしまった。
柏木君がこちらに視線を向けて、僅かに息を吐いたのがわかった。
「今日は、チーズケーキだね」
家庭科室へ向かう廊下で、葉ちゃんがウキウキとした声で話す。
「俺、チーズケーキめっちゃ好きっ」
ダンス部の教室に向かう拓海君が嬉々とした声を上げた。
「拓海は会話に入り込むんじゃないっ」
「いいじゃん、別に」
拓海君は少しだけ不貞腐れたような声で反論し、家庭科室の前に来ると私に笑顔を向ける。
「柚ちゃん。あとでねー」
葉ちゃんが呆れたように嘆息した。
教室に入ると、林先生のレシピが黒板に書かれていた。基本は先生のレシピで作ることになっているけど、各々でのアレンジは可能だった。チーズケーキを初めて作る子達は、先生のレシピ通りに材料を混ぜて作業を進めていく。
私は、みんなと少し違う食材を持ってきていた。それは、以前から考え試行錯誤していたものだ。
彼の言った言葉を心の中で反芻する。
作ったら食べさせてよ――――。
あの時交わした、私たちだけの秘密と笑顔。きっと大丈夫。
自分を鼓舞し、ノートを広げて心を決める。あの日彼がくれた笑顔を思い出しながら、材料を混ぜていく。このチーズケーキに込めた僅かなポイント。その材料一つが、今日作ろうとしているこのケーキにはとても重要だった。
ノートに書き記した材料の配分。混ぜるタイミングと練りの硬さ。オーブンの温度にも注意する。丁寧に、柏木君のことを想い作り上げていく。
型に入れたケーキが焼き上がる。粗熱が取れた頃ケーキナイフで切り分け、一つを先生が味見する。
「うん。よくできてるわね。流石遠野さん。ポイントに入れたこの香りも、さっぱりとしていて、チーズの味を引き立たせているわね」
横にいた葉ちゃんも、目を輝かせて味見する。
「なにこれっ。めちゃくちゃ美味しい!」
感嘆の声を上げる姿に、私の目じりも自然と下がる。
「葉ちゃん。これ、柏木君に渡して来ようと思うの。まともに目も合わせて貰えないから、とっくに嫌われてるかもしれないけど……」
言ってて苦笑いのような、泣き出してしまいそうな感情が顔を出す。葉ちゃんは、大丈夫と言うように、何度もうんうんと頷き私を送りだしてくれた。
廊下に出るといつもの如く拓海君がやってきた。
「ゆーずちゃん」
明るく声をかけられ、いつものようにおねだりもされた。
「チーズケーキ、めちゃくちゃ旨そうな匂い」
私が両手に抱えて持つケーキの箱に、期待した顔をしている拓海君と向き合う。
「ごめんね、拓海君。これはあげられないの」
まっすぐ彼の目を見つめて伝えると、彼の瞳が傷ついたように大きく見開かれる。頬を少し歪め、どうして、と問うように見てくる。
「食べてもらいたい人がいるの」
私は拓海君を真っすぐ見たまま、目を逸らさず伝えた。彼の人懐っこく陽気な雰囲気に甘え、想いをやり過ごすのはやめにしなければいけない。
「その人に、どうしても食べて欲しいの」
拓海君は、困ったような泣いてしまいそうな顔をしたあと俯いてしまった。どこかの教室から、壁掛け時計の針が動く微かな音が聞こえてくる。時々、遠くから生徒たちののざわめきも聞こえてくる。静かだった。彼の呼吸が聞き取れるほどに、静かだった。
そんな中、少ししてからふぅっと風船が萎んでいくみたいに、拓海君は息を吐き出し顔を上げると小さく笑みを零した。
「やっぱ、そっかぁ。そうだよなぁ」
拓海君は、悔しそうに。けれど、明るく声を上げた。
「食べてほしい人って、柏木でしょ」
窺うように訊かれてコクリと頷いた。
「くっそう。あいつ、イケメン過ぎんだよなぁ。他にもいっぱいちやほやされてんのに、柚ちゃんまで持ってくかよ」
冗談交じりに言う拓海君に、どんな顔を向ければいいかわからない。私が彼を傷つけたというのに、被害者みたいに顔が泣き出しそうに歪んでしまう。
「そんな顔すんなって。俺が勝手にちょっかいかけてただけだし」
感情をコントロールできない私を気遣い、拓海君はごめんなって謝る。だから私は、首を振った。
「私、拓海君が同じクラスに居てくれて心強いよ。いつも話しかけてくれて、嬉しいよ」
拓海君のことが嫌いなわけじゃない。けれど、気持ちには応えられない。それは、柏木君がバレンタインのチョコを受け取らなかったことと同じだ。
「うんうん。わかってる、わかってる」
まるで自分に言い聞かせるように頷いたあと、一区切り置くようにして肩の力を抜き私を見る。
「俺の存在、滅茶苦茶貴重で大事でしょ」
拓海君は、得意気に顎をツンと上に向けて笑ってくれた。その笑顔に救われて、私は漸く少し頬を緩められた。
「あ、でも、これだけは言っておく。俺、結構一途だから。いつでも大歓迎だからね」
冗談交じりに笑みを作り、トンと優しく私の背を押した。
「いってきなよ。柚ちゃんなら大丈夫。だって、俺が好きになった女の子だよ」
照れくさそうにした拓海君は、右手を小さく振って私を送りだしてくれた。
廊下の窓からグラウンドへ目を移すと、サッカー部がぞろぞろと校舎内へ入っていく様子が目に入った。柏木君の姿を探すけれど見当たらない。部室へ行ってしまったのか、それともすでに校舎内に入ってきているのか。分からないまま、私は急いで教室へ向かった。ケーキを崩さないよう階段を駆け下り廊下を行く。教室に入ると、彼の机の上には鞄だけが置き去りにされていた。
それはまるで、始業式の日にポツンと一人席に着き、取り残された時のような寂しさに似ていた。
「まだ、戻って来てないの……」
ケーキの箱を持つ手の力が抜けていく。大袈裟だけれど、このまま逢えないような気さえしてくる。溜息のような、諦めの息を小さく零したところで間近で声がした。
「誰が?」
予想もせず真後ろから反応があって、ものすごく驚いてしまった。短い悲鳴を上げて振り返ると、スポーツタオルを首に掛けた柏木君が立っていた。
「驚き過ぎ」
柏木君はクスッと少しだけ笑う。それは、素っ気なくなる以前の彼だった。けれど、もう何日もまともに会話をしてこなかったせいで、どう言葉を返せばいいかわからないし、とても緊張して体がカチコチになってしまう。
柏木君は自席に向かいドサリと腰掛け、噴き出てくる汗をタオルで拭った。ケーキの箱を抱えたまま、私もそちらへ向かう。
「おっ、お疲れ様です」
とにかく何か言わなきゃとかけた言葉に彼が笑った。
「なに、それ。堅苦しいよ」
クツクツと笑いを零し、彼が膝をこちらに向けて座り直す。それから少し考えるようにし、眉間にしわを寄せた。困ったような、怒っているような顔つきに、やはりこの行動は間違っていたのかもしれないと怖気づく。すると。
「あ、のさ……」
柏木君にしては珍しく言い淀み、迷うような顔つきをした。私は黙って彼の言葉を待つ。すると、考え迷った挙句、彼の指先がスッと私に向けられた。
「それ、何作ったの?」
少しだけ遠慮がちに訊ねられ、抱えていた箱を見てから柏木君に視線を戻した。
「えっと。あの……」
緊張にうまく言葉が出て来なくてテンパっていると、彼はまた再びおかしそうな顔をする。
「怯え過ぎ。俺、怖くないよ」
表情がとても穏やかで優しくて、心が高鳴っていく。
私は静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出し彼を見た。
「前に言ったこと、憶えてる?」
恐る恐る訊ねると、彼は何だろうとわずかに小首をかしげる。
憶えてるわけないか……、と自嘲気味に苦笑いを零す。でも、ここで引き下がるなんてダメだよね。葉ちゃんだって、拓海君だって応援してくれてる。なにより、私は私の気持ちを大事にしたい。
「食べたいって……。前に食べたいって、言ってくれたから」
抱える箱を彼に向かって差し出した。すると、柏木君が自然と手を伸ばし受け取った。
「チーズケーキ、作ったの」
「あ……。もしかして、あのノートの?」
コクリと頷きを返した。途端に彼の瞳が輝き出す。
「開けてもいい?」
クッキーをあげた時には断ることなく嬉しそうに中を見ていた柏木君は、このチーズケーキを大切なもののように扱い確認した。私は頷き。食べてみて、というように持っていたプラスチックフォークを差し出した。
柏木君は机の上に箱を置くと、現れたケーキに笑みを作り、もう一度確認するように私を見る。再び頷きを返すと、フォークを動かして口に運んだ途端に感嘆の声を上げた。
「うまっ。なにこれ。すっげー美味い。売り物みたい。それに、なんだろ。このサッパリした感じの風味」
試行錯誤して完成したケーキのポイントに気づいてもらえたことがとても嬉しい。
「柚子をね、入れたの」
「え? 柚?」
柏木君は、私の顔を凝視する。そこでフルフルと首を振った。
「ちっ、違うよ。私じゃなくて、フルーツの方」
慌てて訂正すると、彼がクシャリと表情を崩す。
「わかってるよ」
自分の冗談にケタケタと声を上げ、彼はまたケーキを口に運ぶ。
「ほんと、美味い。ゆず最高!」
その「ゆず」がフルーツの柚子なのか。私自身の柚なのかわからないけれど、とても嬉しくて顔がくしゃくしゃに歪む。
「泣きそうな顔」
ケーキを食べていた柏木君がフォークを置いて立ち上がり私の前に立った。
「もう話してもらえないかと思ってた……」
素直に感情を漏らすと、ごめんと呟く。
「なんか、勝手に焼きもちやいてた……」
その言葉に「え?」と顔を上げると、彼は照れくさそうに頬を染め少しだけそっぽを向くように苦笑いを浮かべている。
「ゆずのは、全部俺のものがいい。ほかのやつにはあげたくない。俺と付き合ってよ」
照れくさそうにしたままぶっきらぼうに言ったあと、私の体を引き寄せ抱き締める。
その「ゆず」がどの柚なのかなんて、もう考えられなくて。私は彼の胸の中で顔を火照らせ、何度もコクコクと頷きを返した。
甘い香りが二人を包み込んでいた。
苦しかった。手の届く距離にいるのに、目を合わせても貰えない。柏木君の態度に哀しみが込み上げてくる。
何がいけなかったのか。どうすればいいのか。考えてもわからなかった。ただ、毎日は暗く沈んだ海の底で、空気を求めるように苦しかった。
対照的に、拓海君の態度は何一つ変わらなかった。あの時の切ない表情は見間違えだったのかと思うほど、拓海君は以前と同じというか、それ以上だった。
休み時間ごとに私の席の傍に来て話しかけてきては、次の部活で作るお菓子は何かと訊ねたり、今度こそは食べたいとねだったりする。
そんな時、私は柏木君を意識する。この状況を見て、彼はどんな風に思っているのだろう。拓海君とのことを、勘違いしていたりしないだろうか。そんな風に怯えても、ただ友達として会話をするだけの相手に「拓海君とはなんでもないの」と説明するのもおかしい。
どうすればいいのか解らないまま、二週間ほどが経ってしまった。
「おはよ……」
いくら素っ気ない態度を取られているとはいえ、隣の席に座っている柏木君に朝の挨拶もしないなんてできず、おずおずと声をかけてみた。
「……はよ」
会話をしてもらうことはできないけれど、挨拶にはボソリとだけれど返してくれた。少しだけ心が救われた。
柏木君は頬杖をつき、窓の外へ視線を向けてしまった。話しかけるなと言われているようで、ズキリと心が痛む。
前みたいに話したいな……。
そんな風に考えてみても、挨拶以外に話しかける勇気は持てず。小さく息を吐き、ノートを取り出した。あの日柏木君が見たチーズケーキのページを開く。今日は部活で、このケーキを作ることになっていた。
あの時柏木君は言ってくれた。作ったら食べさせて。と
素っ気ない態度を取られている私は、もう嫌われているのかもしれない。食べたいと言ったことだって、忘れてしまっているかもしれない。そもそも、ノリで言っただけの可能性だってある。でも。だけど、柏木君に食べて欲しい――――。
今日、このケーキを作ると伝えよう。約束を憶えていなかったとしても、味見して欲しいとお願いしてみよう。断られるかもしれないし。外を見たまま、無視されてしまうかもしれない。でも私は――――。
勇気を振り絞って口を開く。
「柏木く……」
「柚ちゃーん。シャーペンの芯もってない?」
漸くふり絞って出した声は、拓海君の言葉にあっさりと遮られてしまった。
柏木君がこちらに視線を向けて、僅かに息を吐いたのがわかった。
「今日は、チーズケーキだね」
家庭科室へ向かう廊下で、葉ちゃんがウキウキとした声で話す。
「俺、チーズケーキめっちゃ好きっ」
ダンス部の教室に向かう拓海君が嬉々とした声を上げた。
「拓海は会話に入り込むんじゃないっ」
「いいじゃん、別に」
拓海君は少しだけ不貞腐れたような声で反論し、家庭科室の前に来ると私に笑顔を向ける。
「柚ちゃん。あとでねー」
葉ちゃんが呆れたように嘆息した。
教室に入ると、林先生のレシピが黒板に書かれていた。基本は先生のレシピで作ることになっているけど、各々でのアレンジは可能だった。チーズケーキを初めて作る子達は、先生のレシピ通りに材料を混ぜて作業を進めていく。
私は、みんなと少し違う食材を持ってきていた。それは、以前から考え試行錯誤していたものだ。
彼の言った言葉を心の中で反芻する。
作ったら食べさせてよ――――。
あの時交わした、私たちだけの秘密と笑顔。きっと大丈夫。
自分を鼓舞し、ノートを広げて心を決める。あの日彼がくれた笑顔を思い出しながら、材料を混ぜていく。このチーズケーキに込めた僅かなポイント。その材料一つが、今日作ろうとしているこのケーキにはとても重要だった。
ノートに書き記した材料の配分。混ぜるタイミングと練りの硬さ。オーブンの温度にも注意する。丁寧に、柏木君のことを想い作り上げていく。
型に入れたケーキが焼き上がる。粗熱が取れた頃ケーキナイフで切り分け、一つを先生が味見する。
「うん。よくできてるわね。流石遠野さん。ポイントに入れたこの香りも、さっぱりとしていて、チーズの味を引き立たせているわね」
横にいた葉ちゃんも、目を輝かせて味見する。
「なにこれっ。めちゃくちゃ美味しい!」
感嘆の声を上げる姿に、私の目じりも自然と下がる。
「葉ちゃん。これ、柏木君に渡して来ようと思うの。まともに目も合わせて貰えないから、とっくに嫌われてるかもしれないけど……」
言ってて苦笑いのような、泣き出してしまいそうな感情が顔を出す。葉ちゃんは、大丈夫と言うように、何度もうんうんと頷き私を送りだしてくれた。
廊下に出るといつもの如く拓海君がやってきた。
「ゆーずちゃん」
明るく声をかけられ、いつものようにおねだりもされた。
「チーズケーキ、めちゃくちゃ旨そうな匂い」
私が両手に抱えて持つケーキの箱に、期待した顔をしている拓海君と向き合う。
「ごめんね、拓海君。これはあげられないの」
まっすぐ彼の目を見つめて伝えると、彼の瞳が傷ついたように大きく見開かれる。頬を少し歪め、どうして、と問うように見てくる。
「食べてもらいたい人がいるの」
私は拓海君を真っすぐ見たまま、目を逸らさず伝えた。彼の人懐っこく陽気な雰囲気に甘え、想いをやり過ごすのはやめにしなければいけない。
「その人に、どうしても食べて欲しいの」
拓海君は、困ったような泣いてしまいそうな顔をしたあと俯いてしまった。どこかの教室から、壁掛け時計の針が動く微かな音が聞こえてくる。時々、遠くから生徒たちののざわめきも聞こえてくる。静かだった。彼の呼吸が聞き取れるほどに、静かだった。
そんな中、少ししてからふぅっと風船が萎んでいくみたいに、拓海君は息を吐き出し顔を上げると小さく笑みを零した。
「やっぱ、そっかぁ。そうだよなぁ」
拓海君は、悔しそうに。けれど、明るく声を上げた。
「食べてほしい人って、柏木でしょ」
窺うように訊かれてコクリと頷いた。
「くっそう。あいつ、イケメン過ぎんだよなぁ。他にもいっぱいちやほやされてんのに、柚ちゃんまで持ってくかよ」
冗談交じりに言う拓海君に、どんな顔を向ければいいかわからない。私が彼を傷つけたというのに、被害者みたいに顔が泣き出しそうに歪んでしまう。
「そんな顔すんなって。俺が勝手にちょっかいかけてただけだし」
感情をコントロールできない私を気遣い、拓海君はごめんなって謝る。だから私は、首を振った。
「私、拓海君が同じクラスに居てくれて心強いよ。いつも話しかけてくれて、嬉しいよ」
拓海君のことが嫌いなわけじゃない。けれど、気持ちには応えられない。それは、柏木君がバレンタインのチョコを受け取らなかったことと同じだ。
「うんうん。わかってる、わかってる」
まるで自分に言い聞かせるように頷いたあと、一区切り置くようにして肩の力を抜き私を見る。
「俺の存在、滅茶苦茶貴重で大事でしょ」
拓海君は、得意気に顎をツンと上に向けて笑ってくれた。その笑顔に救われて、私は漸く少し頬を緩められた。
「あ、でも、これだけは言っておく。俺、結構一途だから。いつでも大歓迎だからね」
冗談交じりに笑みを作り、トンと優しく私の背を押した。
「いってきなよ。柚ちゃんなら大丈夫。だって、俺が好きになった女の子だよ」
照れくさそうにした拓海君は、右手を小さく振って私を送りだしてくれた。
廊下の窓からグラウンドへ目を移すと、サッカー部がぞろぞろと校舎内へ入っていく様子が目に入った。柏木君の姿を探すけれど見当たらない。部室へ行ってしまったのか、それともすでに校舎内に入ってきているのか。分からないまま、私は急いで教室へ向かった。ケーキを崩さないよう階段を駆け下り廊下を行く。教室に入ると、彼の机の上には鞄だけが置き去りにされていた。
それはまるで、始業式の日にポツンと一人席に着き、取り残された時のような寂しさに似ていた。
「まだ、戻って来てないの……」
ケーキの箱を持つ手の力が抜けていく。大袈裟だけれど、このまま逢えないような気さえしてくる。溜息のような、諦めの息を小さく零したところで間近で声がした。
「誰が?」
予想もせず真後ろから反応があって、ものすごく驚いてしまった。短い悲鳴を上げて振り返ると、スポーツタオルを首に掛けた柏木君が立っていた。
「驚き過ぎ」
柏木君はクスッと少しだけ笑う。それは、素っ気なくなる以前の彼だった。けれど、もう何日もまともに会話をしてこなかったせいで、どう言葉を返せばいいかわからないし、とても緊張して体がカチコチになってしまう。
柏木君は自席に向かいドサリと腰掛け、噴き出てくる汗をタオルで拭った。ケーキの箱を抱えたまま、私もそちらへ向かう。
「おっ、お疲れ様です」
とにかく何か言わなきゃとかけた言葉に彼が笑った。
「なに、それ。堅苦しいよ」
クツクツと笑いを零し、彼が膝をこちらに向けて座り直す。それから少し考えるようにし、眉間にしわを寄せた。困ったような、怒っているような顔つきに、やはりこの行動は間違っていたのかもしれないと怖気づく。すると。
「あ、のさ……」
柏木君にしては珍しく言い淀み、迷うような顔つきをした。私は黙って彼の言葉を待つ。すると、考え迷った挙句、彼の指先がスッと私に向けられた。
「それ、何作ったの?」
少しだけ遠慮がちに訊ねられ、抱えていた箱を見てから柏木君に視線を戻した。
「えっと。あの……」
緊張にうまく言葉が出て来なくてテンパっていると、彼はまた再びおかしそうな顔をする。
「怯え過ぎ。俺、怖くないよ」
表情がとても穏やかで優しくて、心が高鳴っていく。
私は静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出し彼を見た。
「前に言ったこと、憶えてる?」
恐る恐る訊ねると、彼は何だろうとわずかに小首をかしげる。
憶えてるわけないか……、と自嘲気味に苦笑いを零す。でも、ここで引き下がるなんてダメだよね。葉ちゃんだって、拓海君だって応援してくれてる。なにより、私は私の気持ちを大事にしたい。
「食べたいって……。前に食べたいって、言ってくれたから」
抱える箱を彼に向かって差し出した。すると、柏木君が自然と手を伸ばし受け取った。
「チーズケーキ、作ったの」
「あ……。もしかして、あのノートの?」
コクリと頷きを返した。途端に彼の瞳が輝き出す。
「開けてもいい?」
クッキーをあげた時には断ることなく嬉しそうに中を見ていた柏木君は、このチーズケーキを大切なもののように扱い確認した。私は頷き。食べてみて、というように持っていたプラスチックフォークを差し出した。
柏木君は机の上に箱を置くと、現れたケーキに笑みを作り、もう一度確認するように私を見る。再び頷きを返すと、フォークを動かして口に運んだ途端に感嘆の声を上げた。
「うまっ。なにこれ。すっげー美味い。売り物みたい。それに、なんだろ。このサッパリした感じの風味」
試行錯誤して完成したケーキのポイントに気づいてもらえたことがとても嬉しい。
「柚子をね、入れたの」
「え? 柚?」
柏木君は、私の顔を凝視する。そこでフルフルと首を振った。
「ちっ、違うよ。私じゃなくて、フルーツの方」
慌てて訂正すると、彼がクシャリと表情を崩す。
「わかってるよ」
自分の冗談にケタケタと声を上げ、彼はまたケーキを口に運ぶ。
「ほんと、美味い。ゆず最高!」
その「ゆず」がフルーツの柚子なのか。私自身の柚なのかわからないけれど、とても嬉しくて顔がくしゃくしゃに歪む。
「泣きそうな顔」
ケーキを食べていた柏木君がフォークを置いて立ち上がり私の前に立った。
「もう話してもらえないかと思ってた……」
素直に感情を漏らすと、ごめんと呟く。
「なんか、勝手に焼きもちやいてた……」
その言葉に「え?」と顔を上げると、彼は照れくさそうに頬を染め少しだけそっぽを向くように苦笑いを浮かべている。
「ゆずのは、全部俺のものがいい。ほかのやつにはあげたくない。俺と付き合ってよ」
照れくさそうにしたままぶっきらぼうに言ったあと、私の体を引き寄せ抱き締める。
その「ゆず」がどの柚なのかなんて、もう考えられなくて。私は彼の胸の中で顔を火照らせ、何度もコクコクと頷きを返した。
甘い香りが二人を包み込んでいた。