愛なき政略結婚は愛のはじまりでした
「それで今日はどうしたの?」
「姉さんの忘れ物を届けにきた」
「忘れ物?」

 雅に忘れるようなものなんて何もないはずだ。数ヶ月ここで暮らしているが何かがなくて困ったことなど一度もない。実家にあった自身の持ち物を思い返してみても、忘れたものなど一つも思い当たらない。

 雅は本当に心当たりがなくて首を傾げる。誠一郎はそんな雅に少し含みのあるような笑みを見せてから、ラミネート加工された大きめの袋を差し出してきた。

「はい、これ」
「……これ!」

 受け取って中を覗いてみれば、そこにはいくつかのレース糸と年季の入ったケースが入っていた。なんともタイムリーな届け物に雅は驚く。これは雅が実家に置いてきた雅の趣味道具なのだ。

「姉さんにとって一番大事なものだろ? 大事なもの忘れたらダメだよ」

 ケースを開いてみれば、中にはちゃんとレース針が収納されていた。それはもうずっと前に雅が母から譲り受けたものだ。

 幼い頃、レース編みをする母はまるで魔法使いのようで、雅はいつもそばでそれを眺めるのが好きだった。ただの糸が母の手によって、複雑なデザインに仕立て上げられていくのが面白くてたまらなかった。

 そのうち見ているだけでは飽き足らず、母にねだってやり方を教えてもらった。そうしていつの間にやらそれが雅の趣味になっていた。

 結婚が決まってからは意識的に触らないようにしていたけれど、久しぶりに触れてみれば勝手に気分が高揚していく。雅は心からの感謝の気持ちを込めて、誠一郎に「ありがとう」と言葉を返した。
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