彼に抱かれ愛を弾く 〜ベリが丘恋物語〜
悪夢の日から一週間が経ち、合鍵は今も持っている。俊哉からの電話にも出ていない。
再発してしまった突発性難聴は、すぐに点滴治療と薬を処方してもらったことが幸いし、大事に至らずに済んだ。検査結果も要観察にとどまり、体調も悪くない。
病院まで運んでくれた人や、神崎先生には感謝しかない。

大学にもちゃんと通っている。
授業を受け、課題をこなす。就活もさることながら、単位を落とし卒業できなければ本末転倒だ。

バイトも続けている。
仕事を終え、駅に向かって歩いていると、

「美音」

背後から声をかけられた。
呼ばれる度に喜びを感じていた声なのに、今は何も感じない。

私は立ち止まり振り返った。
俊哉が近づいてくる。近づく度にときめいていた気持ちも、今はどこにもない。

「美音、この前」

思い出したくもない。
私はバッグに入れておいた合鍵を取り出すと、俊哉の目の前に差し出した。

「これ、返すね」

「見たのか?」

「何を?」

「それは、その……」

自分で言えないことをどうして訊くんだろう。 嫌味の一つでも言ってやりたい。
でも、私は精一杯の笑顔を俊哉に向けた。

「さようなら」

俊哉は何も言わない。私たちの間に沈黙が漂う。私は合鍵を俊哉に握らせた。

「じゃあ、私は行くね」

笑顔が崩れる前に踵を返し、足を前に踏み出した。
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