亜美佳

「通う亜美佳」③

荒川が見ていたサスペンスドラマが丁度良く終わりを迎え、彼女はため息をついた。不倫と嫉妬にかられた複雑な筋書き、そして妻が夫を刺し殺す。それは現実離れした出来事だが、荒川にとっては早すぎる病気により喪失した夫を思い起こさせるのだ。不倫といった人間関係の複雑さはもはや彼女の世界から遠いもので、テレビの中の登場人物たちに感情移入もできないでいた。

掃除を中断して昼食を取っていた荒川は、リモコンの電源ボタンを押して、掃除の続きをしようかねなどと考えながら立ち上がった。木曜日は毎週、2階の廊下も箒で掃く日だった。まだつけたままだったエプロンを外し、ダイニングテーブルの椅子にかけた。その後、玄関に向かい、使い古した黄土色のスリッパをはいて外へと出た。

外で箒と塵取りを手に取り、2階へ続く階段に向かった。太陽は雲に覆われているが、7月の陽射しはそれでも暑かった。サッと終わらせたい気持ちもあるが、こんな時こそしっかり掃除をしなければいけないというのが荒川の性格だった。これは正確には夫譲りの性格であり、亡き夫は困難な状況でも前向きになり、辛い時にこそ精を出す人だった。同じように行動してみると、夫が近くで頑張れと言って見守ってくれているような、そんな気持ちになれるから不思議だ。

ここ「ベール新宿」は、1階に3部屋、2階に3部屋というアパートだ。夫が父祖父の死を機に土地を購入し、このアパートを建てたのは34年前のことだ。築年数を感じさせるほど、柱や階段には傷みが見受けられる。その名前の由来は、正真正銘、新宿7丁目に位置しているからである。
 
ベールという名前は、夫のセンスによるもので、若者たちの心をつかむために洋風な名前が必要だと言って、夫と一緒にわざわざフランス映画を観に行ったのも懐かしい思い出の一つだった。名前の元となった「ベェル」は美人を指す言葉だ。美人さんなら余計に大事にしないとな。などと夫は言って気に入っていた。

掃除は、荒川にとって単なる作業ではなく、過去への心地よい旅であった。

荒川が3分の1を掃除し終えた頃、202号室の玄関がキィと音をたてて開かれた。そこには、目を引くプリントが施された黒いTシャツに太ももを強調するショートパンツを身にまとった女性が姿を現した。
底の厚いサンダルを履き、肩にはしっかりとした茶色いレザーバッグを掛けていた。彼女の髪は胸元まで伸び、茶色と黒がまだらになった独特の髪色をしている。

この女性が誰であるか、荒川は当然に知っていた。

「こんにちは」と、荒川が声をかける。

荒川がいたことに今気づいたのか、女性は顔だけを向け、首を少し下げたように映った。これには、会釈の意思が滲んでいるのだろうか。女性は特に返事はせず、荒川を背にして階段へと向かっていった。
ふと、荒川は、お昼頃に仕事で外出した充のことを思い出した。部屋には誰もいないはずだ。施錠もせずに外出するのは危険だと、荒川は思うとつい尋ねてしまった。

「鍵は閉めなくていいのかしら?」

女性が振り返り、荒川とほんの数秒だけ目が合った。しかし、気にする様子もなく、女性は無言で階段を下りていった。荒川の心臓は今、周囲に聞こえても違和感のないほどに大きな音を刻んでいる。その女性の口から「うざー」という微かな言葉が聞こえたような気がしたから。

202号室の住人、亜美佳はどこかへ出かけていった。
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